三章 その八
「尽くぅーん、起きてるー?」
ノックと共に扉の向こうから聞こえた姉さんのくぐもった声で、目を覚ました。三月十四日。時刻は午前十一時。最早昼といっても差し支えのない時間だった。
「尽くん、起きてるんでしょー? いい加減出てきなよー。もう部屋にこもって五日だよー?」
呼び続ける姉さんを無視して、その声から逃げるように寝返りを打ち、思考の海に意識を沈める。ベッドから出る気は、少しも起きなかった。
“運命には、逆らえねぇから”
石井が言った運命とは、一体何のことなのか。全くわけが分からない。
それは河辺に関係のあることなのか。ないことなのか。……そして、俺にも関係があるのか、ないのか。
少なくとも、俺は石井に対して縁というか、運命めいた繋がりみたいなものを感じていた。
だって、そうだろう?
もしかしたら彼女は、記憶の底に眠っていた、あの約束の少女かもしれないのだ。
バレンタインでの遭遇は、二人の出会いではなく実は再会で、石井と俺のあいだにはそれこそ運命的なものがあったんじゃないか。そう思わずにはいられなかった。
彼女もそれを察していたからこそ、あんなにも急に距離を縮めてきたんだと思っていた。
でも、本当のところは、分からない。
何故石井が俺に心を許したのか、そして急に心を閉ざしたのか。
五日間そのことばかり考えていたが、どれだけ自問自答しても、結局答えを見つけることは出来なかった。
「石井……」
吐息と一緒に自分の口から漏れてきたのは、彼女の名前だった。
石井に会いたい。声を聞きたい。笑顔を見たい。その手に、触れたい。
過度に美化された思い出が、叶わない願いをどんどん巨大なものにしていく。
失って分かる大切なものなんて、まるで三流ドラマみたいに陳腐な言葉だ。
だけど、どれだけ陳腐でも、拒絶されて初めて、彼女が自分の中でいかに大きな存在になっていたかを、痛いほど思い知らされた。
「なーんだ、やっぱり石井ちゃん絡みで悩んでたの?」
不意に、姉さんの声がやけにクリアに聞こえた。慌てて声の方を向くと、そこには俺を見下ろすように立つ姉さんの姿があった。いつの間に部屋に入ってきたのか、まったく分からなかった。
「……勝手に入ってくるのは気まずいんじゃなかったの?」
「んなもん時と場合によりますー。あとちゃんとノックして『おじゃまします』も言いましたーっ。尽くんが聞いてなかっただけーっ」
ベッドから体を起こして、いつだかの軽口を蒸し返すと、姉さんは子供っぽく頬を膨らませながら俺の言葉に言い返してきた。いつもは年上ぶった振る舞いをするくせに。似合わない。
その不慣れな仕草がなんだか妙に笑えて、この数日で乾いてささくれだった心が、少しだけ和んだ。
「で? 何があったの? 喧嘩でもしたの?」
そんな俺に構う事なく、姉さんは単刀直入に聞いてきた。
「別に」
こちらも端的に、視線を逸らしながらぶっきらぼうに答える。
「別に、って。そんなワケないでしょー、五日も学校サボって引きこもっといて」
「……」
「おとーさんもおかーさんも、心配してたよ?」
尚も俺を問う姿勢を崩さない姉さんに、俺はただ口を閉ざすしかない。言いたくない。言えるわけがない。だって格好悪いじゃないか、女の子に拒絶されて落ち込んだから学校サボりました、なんて。
答えを急かされるかと思ったが、こっちが喋ろうとするまで、姉さんは無言で静かに見下ろしていた。
どのくらい、沈黙が流れただろう。
姉さんはしびれを切らしたのか、大きくため息をついてベッドの端に腰掛けてきた。
「ねえ、尽くん。話だけでも、してみない? 誰かに話を聞いてもらうだけでも、楽になることってあるんだよ?」
柔らかく微笑みながら、姉さんは落ち着いた口調で諭すように話しだした。奇しくもそれは、バレンタインの日に俺が石井へと伝えた言葉そのものだった。
「私、ちょっと早く生まれただけの、血のつながりもない、頼りないおねーちゃんかもだけど、尽くんのこと本当に大切に思っているよ。だから相談、してみて?」
だけど後半部分には、俺が言った上っ面だけのものとは違う、心の中にじんわりと広がる温かい言葉が添えられていて。
「尽くん」
優しく、胸に響くその言葉は、確実に俺の心を動かしていた。
「……最初の出来事は、バレンタインだったんだ」
そして気がつけば、まるで口が勝手に喋り出したかのように、今までのあらましを事細かに話し出していた。
ヤンキー少女と知り合ったこと。
チョコを貰ったこと。
仲良くなって、でも何故かすれ違ってしまったこと。
そして、もしかしたら、初恋の相手かもしれないこと。
一度しゃべりだしたら、止まらなかった。さっきまで言いたくないと思っていたことを、時々とちりながらも、熱っぽく姉さんに伝える。
もしかしたら、心の底では自分でも誰かに話を聞いて欲しかったのかもしれない。ぼんやりとそんな考えが浮かんだ頃には、部屋には再び静寂が訪れていた。
思いの全てを吐き出して、しばらく俺は放心したように宙を仰ぎ見ていた。姉さんは言葉の一つ一つを咀嚼するように、ゆっくりと頷いている。
「尽くんも、色々あったんだね」
やがて口にしたのは、そんな一言だった。
しかし、次に彼女の口から出てきたのは、俺が今まで持っていた考えを根底から覆すものだった。
「でも、石井ちゃんは、尽くんの初恋の人じゃないと思うよ」
聞いて、目の前が真っ白になった。
「どうして、そう思うの?」
そう言うのが、やっとだった。
確かに、俺の記憶は曖昧だ。加えて確認に使った写真も確実と言えるほどはっきりしたものじゃない。でも、だからって何故姉さんがそうとまで言い切れるのか、さっぱり分からなかった。
だけど、何故だろう。その言葉の先を聞かないほうがいいと、俺の本能が警鐘を鳴らす。一度聞いてしまえば、もう戻れない。漠然とした不安が、予感としてあった。
そんな気持ちが顔に出ていたのだろう。姉さんは少しだけ申し訳なさそうな笑顔を浮かべた。
「だって」
彼女はそこで一瞬目を逸らして迷ってみせるが、すぐにこちらへと視線を戻し、言葉を続ける。
「その初恋の女の子って、多分、私だから」
それを聞いた瞬間、今度こそ俺は凍りついた。
自分の鼓動さえ感じられなかった。
吹き荒ぶ北風で窓が揺れる音と、姉さんの声だけが、薄暗い部屋に響いていた。




