三章 その七
朝っぱらから石井と口論をしでかしてから、三日が経った。それだけ時間が過ぎれば、煮えた頭だって嫌でも冷える。
俺は昼休みの教室で一人、ただひたすらに自分の机を注視しながら、先日の彼女とのやり取りを思い返していた。
確かに俺も悪かった。最近の石井の不審さから、イライラしてつい感情的になってしまったのは否めない。
こちらにも非がある以上、やはり俺が頭を下げるのが一番シンプルに丸く収まる方法だろう。もちろん納得はいかないが、それでもどちらかが折れなければ収拾がつかないのは明白だった。
やる事と方向性が固まってしまえば、そこからは早かった。あとは行動あるのみ。
俺はおもむろに席から立ち上がって、彼女を探しに、教室から小走りに出た。
三階建ての校舎を一階から順に、一部屋ずつ見て回る。体育館や職員室も、念のため、一応覗いてみた。しかし、石井の姿は見つからない。三階まで登りきって最後の部屋を探しても、彼女の影すら見つけることはできなかった。
もしかして彼女は、早退でもしたんじゃないか。もう校舎内にはいないんじゃないか。石井を見つけられない不安と焦りがそんな思考となってちらつく。気がつけば、段々と休み時間も残り少なくなってきていた。
何の気なしに、ふと三階の窓から中庭を見下ろす。
「あっ!」
思わず声を上げて、窓の縁から身を乗り出した。
見下ろした先。中庭の木陰に、隠れるように。
そこには、見知った生徒の姿があった。ショートボブの金髪と、小柄な体躯。遠目ではあったが、間違いない。
「見つけた……!」
叫ぶと同時に、彼女の元へ駆け出していた。全力疾走だった。この時を逃したら、彼女とはもう和解するチャンスも、話す機会すらもありはしない。そんな強迫観念めいたことすら感じていた。
階段をほとんど飛び降りるように下り、目的地まで一気に走り抜ける。靴を履き替える時間すら惜しく感じて、内履きのまま外へ飛び出した。
息を切らせながら、彼女の後ろ姿を確認する。いた。まだ、いてくれた。
一旦立ち止まって大きく深呼吸を三回し、息を整える。そして先程の猛ダッシュとは打って変わって、一歩々々踏みしめるように、ゆっくりとその場へ歩み寄っていった。
なあ、石井。この前は悪かった。怒鳴ったりしてさ。やっぱり石井がいないと、寂しいよ。だからさ、仲直り、してくれないかな。
これから口に出す予定の言葉を、何度も心の中で唱え、とちらないように練習する。
何度か復唱したところで、背を向けたままの彼女に心の中で繰り返した言葉をかけようと、項垂れ気味だった顔を上げる。
改めて視線を彼女の方に向けて、そこで俺は初めて石井が一人ではない事に気がついた。気がついた瞬間、俺は反射的に物陰に隠れて、息を潜め覗き込むように様子を伺った。
「――じゃあ、そういうわけで。よろしくね、愛歌ちゃん」
「お、おう、ありがとう。それじゃ、十四日になったら、また連絡するぜ。……れ、連絡、する、ね!」
「あっはは、別に無理しなくていいよ」
どうやら石井はそのもう一人の誰かさんと和気藹々、話しているようだった。なんだか出て行くタイミングを失ってしまい、息を殺し、探るように二人の会話に聞き耳を立てる。
それにしても、彼女が自分以外の人間と楽しそうにしているところなんて初めて見た。相手も『愛歌ちゃん』なんて親しげに呼んでいるし、石井の方もなんだか言葉遣いに気を付けようとしている節があったりと、満更でもなさそうだ。
そう思うと、なぜか途端に落ち着かない気分になってきた。なんだかひどく、モヤモヤする。
なんだよ。なんだってんだ。石井が他の誰かと仲良くしているのを見るだけで、心の中に得体の知れない不安感が募って、無性に叫び出したい衝動に駆られた。
嫌な方向に向きかけた自分の気持ちを誤魔化すように、爽やかに話し続ける二人へと再び目を向ける。そして、今まで石井のことばかり目で追っていたせいでろくすっぽ顔すら見ていなかった誰かさんの方へ、この場で初めて意識を向けた。
その人物の顔を見た瞬間、今度こそ俺は危なく大声を上げそうになった。寸での所で自分の口を塞ぎ、声をくぐもらせる。
ちょっとまて。
何故だ。どういう事なんだ。
思考がぐるぐると暴れる。呼吸も視界も動悸すらも、自分のものとは思えないほど滅茶苦茶に働いていた。
自分を落ち着かせ、混乱する頭を御するために、俺は確かめるように再びその人物を見た。
河辺、奏人。
中性的な甘い顔立ちで、白い歯を見せて笑うのが特徴的な、アイドルの誰某にも負けないというほど爽やか且つ愛嬌のある美少年。そして、バレンタインの日に、石井の告白を切って捨てた、張本人。
そんな石井にとって最大の怨敵とも言うべき男が今、彼女と二人で、笑い合っていた。
状況を確認しても、俺の動揺はなおも大きくなるばかりだった。
何故。どうして。何故。どうして。
同じ疑問が次々と湧いては泡のように弾け、必死に考えをまとめようとする頭の中にもやをかけ、邪魔をする。
気がつけば、いつの間にか河辺はその場からいなくなっていた。俺はいてもたってもいられなくなって、石井の前に、フラフラと歩み出た。
こちらの気配に気がついた彼女は金髪を翻しながら、くるりと振り返る。
最初は頬を薄く朱に染め、惚けた顔をしていたが、やってきたのが俺だと分かるや否や、途端に顔をしかめ、眉間に深いしわを寄せた。
「石井……」
何かにすがる様に、答えを求めるように、彼女の名前を呼んでみる。自分でも驚くほど弱々しい、涸れた声しか出てこなかった。
「……尽か」
久しぶりに俺へと向けられた石井の声と視線は、どこまでも冷たく、分厚い氷の壁を連想させるものだった。『養豚場の豚を見る目』というやつを、俺は初めて人から向けられた気がした。
「なん、で」
震える声を必死で絞り出し、やっとの思いで彼女へと投げかける。
しかし石井は変わらず、凍えそうな程冷ややかな目で俺を見据え続けていた。
「どこから見てたか知らねえけど、とんだ出歯亀野郎だな。ま、話が早くていいけどよ」
俺の問いを軽く無視して、彼女はただ淡々と話し出した。
「私、河辺くんに誘われたんだ。今度二人で遊びに行かない? ってな。まあ、要するにデートってやつだよ、デート」
河辺くん。その呼び方に肌が粟立つ思いがした。
信じがたい現実に、くらくらと目眩がする。景色も、石井の顔さえも、ぐにゃぐにゃと歪んで見えた。
「あいつと一緒にデートに行くって言うの? それ、正気?」
「もちろん正気だし、本気だぜ」
「石井、言ってたよね? あいつを見返してやるって。フッた事を後悔させてやるって」
「それ、もういい」
石井はそう吐き捨てるように言って、大きく肩を落としながら、面倒臭そうにため息をついた。
「もういいよ。なんだかもう、何もかもがどうでもよくなっちまった」
「ど、どうでもよくなったって……何で!?」
湧き上がる感情に身を任せ、俺は叫んだ。
二人でいろんな話をして、手探り状態で服屋や美容室を探して。やっとここまで来たというのに。やっとスタートラインに立ったばかりだというのに。
「それは……」
そこで彼女は言葉を詰まらせた。しかしそれも一瞬、石井は瞳を悲しげに揺らしながら、何かを諦めた表情のまま、再び言葉を紡いだ。
「運命には、逆らえねぇから」
「えっ?」
彼女の口から出てきた言葉を、俺は即座に理解することはできなかった。
運命? 何だ? 何を言っているんだ、石井は?
「意味、分かんねーよ……」
「分かんねぇなら、それでも別に構わねえ」
それ以上もう話すことはないと言うように、彼女は踵を返し、俺に背を向けて歩き出した。
「あっ……!」
瞬間、俺は思わず声を漏らす。無意識に、立ち去ろうとする石井を引き止めようと手を伸ばしていた。しかしその手は既に遠くなりかけていた彼女を捕まえることはなく、ただ虚しく空を切った。石井は一度も振り返ることなく、歩き去っていった。
何も掴むことができなかった自分の手を、所在無げに見つめる。それと同時に昼休み終了のチャイムが鳴ったが、なんだかやたらと離れた場所から聞こえたような気がして、まるで現実感がなかった。
予鈴が鳴っても、授業が始まっても、まるでその場に縫い付けられたように、俺は茫然自失と立ち尽くしていた。
そして俺は、次の日から学校を休んだ。