一章 その一
「完璧だ……」
男子トイレの鏡に向かい、整髪料で強引にセットされた癖っ毛を見て、うっとりと悦に浸りながらうなる。
ちょうど登校ラッシュのばたついた時間帯。そんな忙しい朝のひとときに悠々とトイレにこもること、実に三十分。
入れ替わるように出入りする生徒たちを横目に、俺は自分のまるで水揚げされたワカメようにうねる髪を整えるのに勤しんでいた。
日付は二月十四日。行事に疎い人間だって、今日が何の日か知らない奴はいないだろう。そういうことに敏感な学生なら、尚更だ。
そう、本日はバレンタインデー。一年で一番チョコが活躍して、俺たち現役中学生にとっては重要かつ重大な運命の日だった。
たとえ義理であろうと、女子からチョコがもらえた男子は、勝ち組。
鬼の首を取ったように狂喜し、もしそれが本命ともなれば、その栄光を片手に、そしてもう片方の手を自分に想いを寄せてくれた子と繋ぎ合わせながら、羨望と嫉妬を全身に浴びることを許される。
反対にもらえなかった男子は、言わずもがな。勝者に憎々しげな視線を送る事しかできない、陰惨な負け組となる。
負け組は嫌だ。誰だってそうだろう。俺だってそうだ。
去年までの俺は、どちらかといえば負け組の方に分類される人間だった。
「ケッ、何がバレンタインだよ!」と世間の恋愛至上主義っぷりに悪態をつきながらも心の底では勝者を羨むことしかできないでいる、惨めな敗北者でしかなかった。
だけど、今年は違う。
今日こそ可愛い女の子からチョコを貰うために、いつもより早めに登校し、身だしなみを入念に確認した。おかげで事前準備にぬかりはない。鏡に映る自分は自己採点で百点満点。完璧だった。
最終チェックを終えた俺はヘアワックスをポケットに仕舞い込み、勢いよくトイレを飛び出した。叩きつけるように扉を開けたので、何人かの生徒が不審の目を向けてくるが、気にしない、気にしない。
落ち着け。自分に言い聞かせて、逸る気持ちを抑えようとする。でもやっぱり胸は躍って、跳ねるような足取りで教室に向かう。他の生徒たちも心なしか浮き足立って落ち着きがないように見えるのは、自分がそういう気持ちでいるからだろうか。
もうすぐ、チャイムが鳴る。あとはいつものように教室に入り、静かに着席して、時が来るのを待っていればいい。
その時が来れば、きっと俺へ密かに思いを寄せている、目立たない大人しめな少女が、恥ずかしそうにハニカミながら屋上か中庭あたりへ呼び出してくれるはずだ。
問題があるとすれば、そんな女子がいるかどうかという点だけだ。が、そこは恋多き中学生。きっと一人くらいは必ずいるはず。根拠なんて全くないが、妙な自信と確信で頭の中は溢れかえっていた。
そんな風に、上の空で考え事をしていたせいかもしれない。
教室に入ろうとドアを開けた瞬間、丁度同じタイミングで教室から出てきた女子に軽くぶつかってしまった。
「あ、悪――」
悪い、と謝ろうとして、相手を見た瞬間。
俺は硬直してしまった。
何故か、って?
それは簡単。
その人物は、この浮かれた気分も一瞬で吹き飛ばすくらい、一番会いたくない、会ってはいけないクラスメイトだったから。
まず視界に入ったのは、どうしても目を引く、その白みがかった金髪だった。腰ほどまでまっすぐ伸びた髪を上から下まで一分の隙もなく、見ている方の目が痛くなりそうなくらい明るく染め上げ、前髪だけをチョンマゲみたいにちょこん、と結わいでいた。
身長は大きく見積もっても百五十センチ程度だろうか。きっと制服を買ったときはもっと背が伸びると見越していたんだろう、ぶかぶかの制服はまさに着せられているといった感じだ。ジャストフィットと言うにはワンサイズ大きいブレザーの袖口から、僅かに白い指先が覗いていた。
こちらの視線に気付いたのか、相手もじろりと、三白眼で見返してくる。
威圧的に吊り上がった、丸っこくて大きな瑠璃色の瞳。端整な顔立ちは間違いなく『美少女』と形容されるくらいに可愛い。だが、眉間に皺を寄せてチンピラみたいに睨んでいるその表情では、美少女っぷりの全てが台無しに、むしろ変な迫力が生まれて逆効果になっていた。
「いっ……」
張り詰めた空気の中、乾ききった声で、絞り出すように彼女の名前を口にした。
「石井、愛歌……」
石井愛歌。まるでその名前自体が圧力を持つ言葉みたいに、ずっしりと俺の心に重たくのしかかってきた。
彼女の名前を知らない奴なんて、この学校にはいない。断言できる。
勿論、悪い意味で。
理由は校則ぶっちぎりのド金髪をしている時点で、推して知るべし、というか。
「え、と、その、ごめ」
「あぁ!?」
声を震わせどもりながら、やっとの思いで謝ろうとする。しかし、言い切る前に石井によって遮られてしまった。
その幼い外見にはおよそ似つかわしくない低くドスの利いた声で威嚇され、俺たちのあいだの温度がスッと下がったように感じた。
途端に周囲の生徒が一斉に俺たちの方を見て、ザワザワと不穏な盛り上がり方をしだす。
中には好奇心丸出しで「なになに? スケバンの喧嘩? 超ヤバーい!」「うわ、山岸の奴、やっちまったな」「石井に絡まれるとか、あいつ半殺しになるんじゃねえの?」と遠慮なく口にする奴らまでいた。
周りが騒がしくなってくると、石井は研ぎ澄まされたナイフのように鋭い視線で俺を射抜いたまま「チッ」と聞こえよがしに舌打ちをした。
「どけよ」
吐き捨てるように言い、石井は俺を突き飛ばしてそのまま足早に去っていった。
そのうち石井の姿が見えなくなると、自分の中でそれまで塞き止められていたものが一気に溢れ出るように、ドッと背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
怒りはない。それよりも同い年の女子に対して過剰ともいえるくらいの恐怖心が、大部分を占めていた。
掴みかかられなかったのは本当に幸いだった。心臓が止まるかと思った、というと大げさに聞こえるかもしれないが、実際俺は、それに近いものを感じてしまっていた。正確には、息の根を止められるかと思った、といった印象だけれども。
石井が去った後は、騒然としていたギャラリー達も次第に落ち着いていき、やがて普段と変わらない朝の風景が戻ってきた。あからさまにつまらなそうな顔をして帰っていく無責任な野次馬もいた。
そう。彼女の事を悪い意味で知らない奴がいないというのは、つまり、そういうことだ。
石井愛歌という少女は、世で言う不良、ひいては学校で一番厄介な札付きのワル、ヤンキー娘としてその名を馳せているのだった。
石井の悪い噂は、この学校にいれば嫌でも耳に入ってくる。
やれ、柔道部の大男を金属バットでボコボコにしただとか。
カツアゲで一日百万円稼いだとか。
いじめて不登校に追い込んだ生徒を東京湾に沈めてとどめを刺したとか。
多少は尾ひれが付いていることを加味したとしても、聞こえてくる噂はいずれも非道で残酷なものばかりだった。
危機感は中々離れてくれないのか、未だに動悸が激しい。朝から面倒事に巻き込まれた疲れと、大ごとにならなくて済んだ安堵感から、大きく溜息を一つ吐き、項垂れるように視線を落とした。
俯きながら廊下に目をやっている。ふと視線の先に、無機質な廊下には似つかわしくないものを見つけた。
拾い上げてみると、それは手のひらにすっぽりと収まるくらいの小さな箱で、パステルピンクの可愛らしい包装紙と真っ赤なリボンで丁寧にラッピングされていた。
こんなもの、さっきまでここにあっただろうか。そこまで注意深く見ていたわけではないが、こんなに目立つ箱が転がっていれば、流石に気が付いていたように思う。
ということは、これはさっきの一件での落し物か。石井が俺とぶつかった拍子に落としたのだろうか。彼女にはピンクと赤の小箱は似つかわしくないような気もしたが、一周回ってよく似合っているような気もする。
これはやはり、持ち主に返した方が良いのだろうか。
そう思った瞬間、さっきの光景が脳内にフラッシュバックした。
三白眼。金髪。刃物のような視線。
思い出すだけで、まだ冷や汗でぐっしょりと濡れているワイシャツが、更に冷たくなった気がした。
怖い。
あいつには関わりたくない。
君子危うきに近寄らず。
何も見なかったことにしてこの小箱も放置してしまえばいいんじゃないかと、心の中の弱い自分が囁く。半面、たかが同級生に落とし物を届けるだけで何をビビっているのかと、自分に対して僅かに腹が立った。
短く逡巡した後、俺は小箱を届けるべく石井の後を追って走った。
廊下を抜けたところで、階段をのろのろと下る石井を見つけた。さっさと歩いて行ったからだいぶ離されているのかと思ったけれど、意外とすぐに追いついてしまった。
そして、ここでまた「やっぱりやめようかな」と気弱に躊躇ってしまうもう一人の自分が、再び顔を出す。今ならまだ間に合う。なかったことにできる。
でも、もうここまで追って来たんだ。今更逃げ腰になるのは情けない。そう自分に発破をかけて、俺は大きく息を吸い込み、一歩を踏み出した。
「石井!」
意を決して、呼び止める。石井はかったるそうに振り向き、俺の姿を確認した途端「またこいつかよ」と言わんばかりに、露骨に顔をしかめた。
「んだよ?」
彼女は踊り場で足を止めて、面倒臭さを隠そうともせずに俺を見上げた。再び、喉元に刃物を突き付けられたような緊張感が走り、思わずごくりと生唾を飲み込んだ。
「あー、その、これ」
緊張のせいか、瞬間的に頭の中が真っ白になってしまい、何を言うべきなのか、咄嗟に思いつかなかった。上手く言葉が出てこない。
しどろもどろになりながら、俺は握っていた小箱を石井に見せた。自分で思っていた以上に強く握っていたようで、箱は少しだけ潰れて折れ目が付いていた。心なしか、手汗で包装紙も若干湿っている気がする。
小箱を見せた途端、石井は目の色を変えた。そして次の瞬間には階段を二段飛ばしに駆け上がり、気が付いた時には、俺の手から小箱をひったくるようにして奪っていた。
全てが一瞬だった。尋常じゃない勢いだった。石井の落し物だという確信はなかったが、この反応を見れば間違いないだろう。あれはやっぱり彼女のものだったのか。
「……見たのか?」石井はうつむいて、ぼそりと呟いた。
「は?」
「だから、箱の中身! 見たのかって聞いてんだろぉが!」
俺から奪った小箱を乱暴にブレザーのポケットへ仕舞いながら俺の襟元を強引に引き寄せ、石井は声を荒げて必死な表情で聞いてきた。顔が今にも触れそうなくらいに、近い。
「いや、見てない、けど」
石井の鬼気迫る様子に、答えながらも思わず後ずさる。というか、こんなに丁寧に包装された箱をこの短時間で開けて、またラッピングし直す方が無理だろう。
やがてそのことに石井も気が付いたのか、徐々に表情を和らげながら踵を返した。
「……そっか。ならいい」小さく言って、彼女は俺から手を離した。「わざわざありがとな」
くるりと背を向けながらぶっきらぼうにそれだけ言い放って、石井はそのまま階段を降りて、どこかへ行ってしまった。
「……。何なんだよ」
誰もいなくなった廊下で、一人呟く。
落し物は届けた。一件落着、と言いたいところだが、どうにもすっきりしない。
箱の中身も、石井の態度も、さっぱり訳が分からない。何の説明もなく放置された孤独感と、朝っぱらから緊張を強いられた疲労感だけが、色濃く残った。だけど、もう一度彼女を追いかけるほど深入りする気も、度胸もあいにく持ち合わせていない。
好奇心を諦観で抑え込み、仕方なく、トボトボと教室へ向かった。
通りがかった廊下の窓を何気なく覗き、そこにぼんやりと映る自分の姿を見て、思わず足を止めた。
滴るほど掻いた冷汗で顔周りの髪や襟足はべったりと肌に張り付いていた。石井を追いかけて走った所為で旋毛の辺りは笑ってしまうくらい見事に逆立っている。朝の貴重な時間を割いて整えた髪型は、見る影もない程ぐちゃぐちゃになっていた。マジかよ。
「勘弁してくれ……」
がっくりと肩を落とし、独りごちる。もはや今となっては、浮かれながら髪をいじっていたのが遠い昔のように感じられた。
苦労がすべて水の泡になって思わず泣き出したくなる。そこををぐっとこらえて、重い足取りで再び歩き出した。
窓の外には、透き通るような青空が、頭にくるくらい、どこまでも広がっていた。




