三章 その三
その夜、久しぶりに子供の頃のアルバムを引っ張り出してきた。
物置にしまってあった十冊程を自室に持っていき、今朝見た夢の続きを探すように、一枚一枚、丁寧にページをめくって調べる。
見返してみるとうちの親は案外写真好きのようで、俺が生まれてから幼稚園に上がるまでの間だけで実にアルバム四冊分もあり、一通り目を通すだけで思った以上の時間がかかってしまった。
途方もない量の写真を根気強くチェックして、そして。
「あった……」
見つけた。わずかに、一枚だけ。だけどついに、見つけた。
運動会の徒競走で、一等賞の記念に撮った写真。そこにたまたま写りこんでしまったのだろう、隅で小さく見切れている、女の子。
表情すらほとんど見えない。、判断材料になりそうなものは思い出の片隅にあるチョンマゲ頭くらいだった。
判別するには心もとない、たった一つの手がかり。だけど、間違いない。曖昧だった記憶が、霧が晴れるように、少しずつ鮮明になっていく。
この子こそが、お菓子のやり取りを、そして結婚の約束をした、俺の初恋の女の子だ。
色あせた写真をアルバムから抜き出し、少女の写っている一点をじっと見つめる。
やはり、石井に似ている。……気が、する。
前髪を結いだ髪型、泣き顔、なにより喜んだ時の、あの笑顔。
眺めれば眺めるほど、少女と石井には通じるものがあるような気がしてならなかった。もちろん、ただの勘違いだとか、他人の空似という可能性も多分にある。
後で父親にでも尋ねてみれば、もしかしたら真実が分かるかもしれない。もしくは石井本人に聞いてみてもいい。だけど、これは俺が、自分の力で思い出さなくてはならない事なのだと、なかば覚悟にも似た思いが胸の中にあった。
写真を睨みながらうんうん唸っていると、不意に部屋の扉をノックする音が聞こえた。
「尽くーん。今ちょっといいー?」
この声は、姉さんだ。乱雑に積んでいたアルバムをとりあえず部屋の隅に追いやり、律儀にドアの前で待機していた姉さんを部屋に招き入れた。
「どうぞ。勝手に入ってきても良かったのに」
「おじゃましまーす。だーって尽くんも男の子でしょー? 自慰ってる最中とかだったりしたら気まずいじゃなーい」
「そりゃあムカつくくらいの気遣いどうもありがとね!」
軽口につい本気になってしまう、煽り耐性の低い俺。
姉さんはそんな様子すらも一笑し、ベッドに腰を下ろす。そして俺が椅子に座るのを見計らって、何食わぬ顔で、いきなり本題へと入った。
「帰り道で、一緒にいた子。えーと、石井ちゃん? だっけ?」
「うん」
「あの子、なんかちょっと様子がおかしかったじゃない? もしかして、いっつもあんな感じの子なの?」
「そんなことないよ。でも、確かにあの時は、何て言うか。……いつもより、ピリピリしてた」
「やっぱ、そうなんだ。……それって、私のせい?」
「……分かんない」
状況からして姉さんが現れたことが原因の一端であることは間違いないのだろうが、それをそのまま口にするほど俺は無神経な男でもない。曖昧に言葉を濁す。
姉さんは「ふーん」と相槌ともため息ともとれる返事をして、ベッドへ倒れ込むように勢いよく寝転がった。
「いやー、だってさー。気になるじゃん? ああいうの。私が気付いてないだけで、もしかしてその、石井ちゃん? にすっごく失礼なこと言っちゃったんじゃないか、とかさー」
そう言う姉さんの顔は、心なしか少し疲れた表情をしているようだった。やはり自分が何か悪いことして石井を不愉快にさせたのでは、と不安だったのだろう。横になったまま、姉さんは力なく笑った。
「だからさ、尽くん。悪いけど今度あの子にあったら、私がメッチャ謝ってたよー、って伝えてもらえる?」
「分かった。伝えとく」
正直なところ、俺も石井が何故あんな態度をとったのか分からない。分かっていないくせに謝るなんて誠意がないようにも感じたが、それでも謝らないよりは百倍マシだと思えた。
俺の返事を聞いて安心したのか、姉さんはほっと大きく息をつく。目に見えて肩の力が抜けていた。それを見て初めて、彼女がこの部屋に来てから今までの間、ずっと緊張していたのだと知った。
「いやいや、何卒よろしく頼むよー? 何せ大事な弟の彼女さんだからねー。私が原因で二人が別れたーなんてことになったら、ホースにキックされてサーチアンドデストロイだよー」
「おいコラ! 言葉の意味は全然分かんないけど意図はなんとなく分かるぞコンニャロ! あと彼女じゃねーし!」
そして緊張が解けた瞬間、これだった。
いつもの姉さんと言われればそうなのだが、さっきまでのしおらしい姿に、一瞬でも同情したこっちの気持ちを返してほしかった。
「まあまあ、そんなことより」
そう言って姉さんはベッドからむくりと上半身を起こし、澄ました顔で肩まで伸びた茶髪を手櫛で梳く。
自分で焚きつけておいて露骨に話題を逸らそうとする姿に釈然としないものを感じつつも、とりあえず話の続きを促した。
「もうすぐホワイトデーでしょー? 尽くん、ちゃんとあの子へのお返しとか準備してるー?」
確かに、あと十日ほどでホワイトデーだ。あの激動のバレンタインからもう一ヶ月も経つのか、と心の隅で思ったが、興味津々といった風に瞳を見開いている姉さんの前では、その思考を中断せざるを得なかった。
「べ、別にいいじゃん。姉さんには関係ないしっ。ていうか何で俺が石井からチョコ貰ったって知ってんのさ!?」
「いや私別に石井ちゃんからチョコもらったとか全然知らないしー。適当にカマかけただけだしー。でもそっかー、やっぱ尽くんもちゃんと貰うもん貰ってたんだねー。へー、ふーん、ほー」
「うっわその言い方すげえ腹立つ!」
ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべながら俺を嬲る姉さん。落ち着け、慌てては姉さんの思う壺だ、と努めて冷静を装う。
「そ、それで? ホワイトデーだから何だってのさ。いいでしょ、別に返さなくても」
拗ねてついそんなことを口にしたが、無論本音を言えば、心のこもった贈り物に対しては、ちゃんとお返しをした方がいいと思っている。
たとえあのチョコが別の男の使い回しであろうと、渡された時に『話を聞いてくれたお礼だ』と言ってくれた彼女の気持ちは、本物だと信じたかった。
「ダメだよー、ちゃんと返さなきゃー」
姉さんはそんな俺の本心を見透かしたように、諭すような口ぶりで窘めてきた。
そのいかにも年上ぶった振る舞いに、誕生日が二ヶ月早いだけで年上面して、と意味のない反抗心が沸き上がる。
「はいはい、分かったよ」
そして素直になれず、つい面倒くさそうに返事をしてしまう。子供っぽいと我ながら思ったが、それでもこれが俺にできる唯一の、ささやかな抵抗だった。
しかし姉さんは俺の返事なんて大して聞いてないようで、急に閃いた顔をして、まるで餅をつくみたいに両手を打った。
「そうだ! どうせだからそのホワイトデーのお返し、私が一緒に買いに行ってあげようか?」
あまりに唐突に、姉さんはそんな事を言ってきた。如何にも『いいこと思いついた!』と言わんばかりの、晴れ晴れとした笑顔だった。
「はあ!? いやいや、いいよ別に。なんで姉さんと一緒に買いに行かなきゃならないの」
当然俺は、全力で拒否をする。
この歳にもなって保護者同伴で女の子へのプレゼントを買いに行くなんて、迷惑にも程がある。プレゼントを姉に選んでもらうのは主体性がないようでもちろん嫌だし、その現場を他人に見られるなんて、もっと嫌だ。もし姉さんと買い物をしているところをクラスの誰かに見られたら、と考えるだけで、顔が赤くなったり青くなったりしそうだった。
「俺ひとりで行って来るって。全然大丈夫だから、な!」
「えーいいじゃん一緒に行こうよー久しぶりに二人でさー。それに尽くん、私と一緒に行かないと、結局『やっぱ金が足りなくて買えなかった』とか言って、結局買わずにすっとぼけそうだしー。知ってるよー? あんまりお金無いの」
必死に回避しようとする俺とは対照的に、姉さんは澄ました態度で軽く笑いながら指摘してきた。
なかなか核心を突いた思わず言葉に詰まる。こちらの財布事情まで読まれていては、二の句が継げない。
実際、まだ月の初めだというのに、俺のお小遣いはもうほとんど残っていなかった。これで何に使ったのかもロクに覚えていないのだから、始末に負えない。
「可愛い弟のためなら、お姉ちゃんちょっとくらいならお金貸すからさー」
「……そのかわり、一緒についてくるって言うんでしょ? 買い物に」
「よく分かってんじゃーん」
姉さんは満足気にそう言うと、もう要件は済んだのか、ベッドから跳ね上がるように勢いよく腰を上げた。
「それじゃー、今度の日曜日でいいよね。石井ちゃんへのお返しを買いに行くから、予定空けといてねー」
それだけ言うと、俺の返事なんて聞かずに、姉さんはさっさと部屋から退散していってしまった。呼び止める間すらなかった。
姉さんが去り、一人になった部屋には途端に静寂が広がる。
「マジかよ……」
溜息と共にひとりごちる。言葉は誰に届くわけでもなく、粛然とした空気の中に虚しく溶けていった。
寂しささえ覚える程の静けさの中、さっきまで姉さんが座っていたベッドの端に、スプリングが軋むほど乱暴に腰掛け、今しがた一方的に交わされたばかりの約束を、ゆっくりと反芻する。
日曜日に買い物の約束、か。
まるで誰かさんのときみたいだな。
今度は、ホワイトデーのプレゼント。俺が。石井に。
彼女は喜んでくれるだろうか。気に入ってくれるだろうか。
笑って、くれるだろうか。
気がつけば周りの静けさなんて気にならない程、没頭して考え込んでいた。さっきまでの寂しさなんて一瞬で霧散していて、姉さんがこの部屋に来たことすら、遠い彼方に追いやられていた。
頭の中に思い描くのは、最近やたらと綺麗になった金髪ヤンキー少女。
彼女が俺に見せる、妙に人懐っこくて、飾り気のない、あの笑顔ばかりだった。




