二章 その八
息を切らせながら小走りに手を引く石井は、店が見えなくなった辺りでやっと歩調を緩め、こちらへ向き直ってきた。
「この、ばかたれ! 何いきなり恥ずかしいこと叫びだしてんだ!」
かと思うと真っ赤な顔のまま俺の胸ぐらを荒っぽく掴み、鋭く睨みつけながら、辛辣に言い放った。
「ごめん……」
普通に謝ったつもりだったが、口から出てきた詫び言は、店内での大声はなんだったのかと思うほど、掠れ切っていた。
いくらか冷静になった頭で、思い返す。
どうかしていた、と言えばその通りなのだろうが、自分がここまで煽り耐性が低いとは思っていなかった。まさか軽く甘攻めされただけで、半狂乱になるとは。
衝動的に、豆腐の角に頭をぶつけたくなる。目を噛みたくなる。先ほどの自分の言動による羞恥と後悔の念で、顔から火が出そうだった。彼女の顔を、まともに見ることができない。
「ほ・ん・と・に! 分かってんのかぁ? あぁん?」
石井はきつい目付きのまま掴みかかっていた手を離し、代わりに今度は片手を自分の腰に当てながら、俺の胸元をツンツンと突っついてきた。
「重々反省しております……」
彼女にされるがままになりながら、なんとか言葉を絞り出す。
その後もしばらくプリプリと怒る石井に「ばか!」「あほ!」と罵られ、その度に俺はペコペコと謝り続けた。
「ったく……。人前であんなこと言うとか、今度やったらタダじゃおかねぇぞ」
「……人前じゃなければいいの?」
言った瞬間、悔恨の情にかられた。
ゆっくりと彼女の方へ目を向ける。視線の先にあるその瞳は、寒気がするくらい冷たいものだった。
「すみませんごめんなさい冗談です!」
即座に頭を下げるが、石井はわなわなと震えながら、固く拳を握ったままだった。
「んな事はなぁ……!」
地を這うような、彼女の声。
これはダメだ。今度こそ確実に、ぶん殴られる。
咄嗟に頭をガードして、身を屈めた。息を飲み、目を瞑る。
しかし、いつまで経っても彼女の鉄拳は飛んでこなかった。
怖々様子を伺うと、石井は確かに握り拳を作ってはいるが、表情には既に鋭さはなく、どちらかと言うと拗ねているような、照れて上気しているような、そんなニュアンスが見てとれた。
「……んな事はなぁ、言わなくても、分かれよ。恥ずかしい」
そしてプイッ、っと顔を背けたかと思うと、彼女は小さく呟くように言い放った。
「雰囲気次第じゃ、……構わねぇよ」
構わねぇよ。構わねぇよ。構わねぇよ。
頭の中でその言葉にエコーがかかり、何度も何度も繰り返される。その度に、胸いっぱいに甘い痺れが迸った。
表情は見えない。だけど、石井がどんな気持ちでいるか、僅かに見える真っ赤になった耳から、察することはできる。
そしてきっと俺も今、彼女と同じ顔をしているんだろう。
冬の寒さが全く気にならない。首から上が燃えるように熱い。
さっきまでは、まるで地の底にいるような気分だったのに。
今ではもう、どこまでも舞い上がれそうなくらい、気分が高まっていた。
「……でも! やっぱりさっきのは、いただけねぇよな!」
石井は明後日の方向を向いたまま、顔の火照りを誤魔化すように、あるいは現在俺達の間に流れる微妙なムードを仕切り直すように、わざとらしいくらいに明るく元気いっぱいに振舞った。
「だからさ、その、さ。お詫びの印として、さ」
しかし、言葉を紡いでいくにつれて、次第に彼女のそれは歯切れが悪いものになっていく。むず痒さを我慢するかのように落ち着きなく動き、それを治める為か、一度大きく深呼吸をして、再度、俺の方へ顔を向けた。
「また今度、ケーキ食べに行こうぜ、駅前の! もちろん、尽の奢りでな!」
その時の石井の顔は、例えようがないくらい、晴れやかで、爽やかで。
そして彼女の誘いは、『また二人で出かけよう』という、近い未来の約束に違いなくて。
「……ああ、もちろんっ!」
だから俺は当然のように、二つ返事で引き受ける。カモられているなんて、もう、思うわけがない。
気がつけば陽は僅かに傾きかけ、西日が眩しく照らしている。反射的に目を細めてしまうが、それでも彼女から、目を離せない。
燦然とした光を浴びて、彼女の紅をさしたような顔が、俺には一層目映く、そして一層赤らんで、何より、一層美しく感じられた。




