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開展の祝辞

 手紙が届いた。

 正確には、届いたというよりは手渡されたと表現した方が正しい。今、お世話になっている親戚のおばさんから渡された。俺の18歳の誕生日に渡してくれと、両親から頼まれたらしい。

 手紙というのは不思議だ。その場にいない人ともやり取りができる。しかもデータでしかないメールなどと違って、暖かみというものがあるし、何度だって読み返すことができる。そしてその度に、たとえその差出人が二度と会えない遠いところに行ってしまったとしても、また会えるんじゃないかという僅かな希望を抱いてしまう。そんなのは幻想だと分かっているのだが、それでも縋ってしまうのは、やはり人間は弱いのだということだろう。

 手紙の封筒には、俺の名前が父親の綺麗な字で書かれていた。


***


「何で俺の名前はカタカナなんだ?」

 そう、聞いたことがある。確かまだ俺に全てが在った頃。恵まれた生活で、でもその幸せに気づきもしていなかった頃。

「何でって……ねえ?」

「別にいいじゃないか」

 親はそう言って誤魔化した。別にカタカナが嫌だというわけではなかったのだが、ひらがなという人はいてもカタカナという人はあまりいない。しかもハーフなわけでもない純日本人。だから普通に疑問を持った。でもそうやって誤魔化されたことで、ちょっと自分の名前が嫌いになったのは事実だ。つまりたいした意味もなかったということなのだろう。俺の名前はそんな適当なものなのか、とふてくされた。我ながら子供だったと思う。

 でも、兄さんは笑って言った。

「俺は好きだけどな、お前の名前」

「……何で?」

「だって、――――」


***


 感傷に浸りながら、俺は封筒を開くのをまだ躊躇っていた。なんとなく、開けるのが怖かった。ただそれだけだ。でもここで読まなかったら、両親や兄を裏切ることになってしまうのではないか。そう思って、俺は意を決して封を開けた。

 中に入っていたのはたった一枚の便箋。


『元気ですか。いいお友達はたくさんいますか』


 その一行だけで胸が苦しくなった。

 友達……と呼べる人は、いないわけではない、だけど。

 たとえば、自分と空を重ね合わせて無力だった自分を何より憎んでいる奴とか。

 たとえば、黒い靄と白い部屋に閉じ込められている奴とか。

 たとえば、俺と同じ傷を抱えたまま出口の見えない闇を彷徨っている奴とか。

 全員俺にとっては大切な存在だが、それが『いいお友達』と呼べるのだろうか。家族が俺に求めていた友達はそんな人だったのだろうか。いやそもそも、この手紙を書いたとき、家族が思い描いていた18歳の俺は、果たしてこんな人間だったのだろうか。少なくとも最後の問いに関してだけは、絶対に違うだろうと断言できる。


『何で18歳の誕生日にこんな手紙を書いたかというと。

 覚えているでしょうか、あなたが小さい頃はひどく体が弱かったこと。もしかしたら、あなたは人よりも短い生しか生きられないのではと。だから、あなたが大人になったときには、盛大にお祝いしてあげようと決めました。大人、といったら普通は成人する20歳なのかもしれないけれど、18ともなればもう高校も卒業が間近。その気になれば結婚だってできる年。あなたは頭がいい子だから、きっと18歳のあなたはきちんと大人になれていると思います。でも何よりも、こうやってあなたがこの手紙を読んでいるということが、私たちにとってはとても嬉しい』


 そうだ、俺は生きている。昔のように寝込むなんてもうほとんどない。だけど――俺は確かに、大事なものを失っている。18歳になったって、俺は大人になんかなれてやいない。

 そうだよ、父さん、母さん、兄さん。俺は生きてる、生きてちゃんとこの手紙を読んでいるんだ。でも――でも、それを祝ってくれるあなたたちがもういないんじゃあ、意味がないじゃないか。

 ぐしゃり、と紙が鳴る。胸が苦しくて、息が上手くできなくて、俺は床に座り込む。でも、その先に書いてあったのは。


『……なんて、書いてしまったけど。きっとあなたは、自分はまだ大人なんかじゃないと言うんでしょうね。あなたはそういう子だから。

 だから私たちは、一言だけをあなたに捧げようと思います』


***


「俺は好きだけどな、お前の名前」

「……何で?」

「だって、深海、再会、邂逅、開展……ほら、全部お前の名前に繋がってる。カタカナだからこそ、たくさんの意味を持てるんだから」

「……俺、そんな大層な人間じゃないけどなあ……」

「お前はちょっと自分を過小評価しすぎだと思うぞ?」

 そう言って笑う兄さんが、俺は大好きだったし憧れていた。

 だから、兄さんにそう言われて、単純なことに俺は自分の名前が誇らしくなった。

 だから、兄さんに名前を呼ばれることが、嬉しかった。


***


『誕生日おめでとう、カイ』


 それで、手紙は終わっていた。

 たくさんの人がいなくなって。

 それよりもずっとたくさんの人の心に傷を遺して。

 俺が家族を失って。

 そして、俺が声を失った。

 そんなあの日以来、俺は初めて、涙を流した。




『遊びに行こうよ!』

 俺の自称大親友からのメールには、そう書かれていた。宛先を見るに、どうやら彼女も誘われているらしい。しかも行き先は病院。誰に会いに行くのかは明白だ。俺は苦笑して携帯を閉じる。上着を羽織り、おばさんに外出する旨を伝えて玄関を出る。涙はもう乾いていた。

 空を見上げた。どこまでも続くような青い空。梅の花が舞う。

 俺は大きく息を吸い込み、そして歌った。

 当然、俺の口からは何の音も発せられなかったけど。

 ただ、この歌が誰かの心に届けばいいと思って、俺のような奴でも誰かを救えればいいと思って、俺は歌い続けた。


 空耳よりも透明で、空より青い歌声は、春を告げる空気に舞い上がって溶けていった。

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