第7話 恐れる人々
ルティシアに隷属の首輪をつけた翌朝、アージェスが寝室から出てくると居間には侍女が着替えを用意して待っていた。
そこにルティシアの姿がない。
「俺の兎はどこへ行った?」
侍女は怪訝な顔をした。
「私が参りましたときには、こちらにはおりませんでした。てっきり陛下とご一緒とばかり思っておりましたが?」
「いや、別々で寝た。どうやら早速逃げたらしい。着替えは自分でする。探しだし、遅れても食事の席には必ず同席させろ」
やれやれと、溜息をつく。
王宮では、三度の食事は家臣らと取るのが通例だ。
序列はあるが、皆会話を楽しみながら食事をしている。
国王であるアージェスが、堅苦しいのを嫌うからだ。
己を『余』と改めて発言するのも、公式の場でのみに限っていた。
その日の朝食が始まり、家臣らの興味は国王の左隣の空席に集中した。
大臣の一人が苦言を呈する。
「奴隷娘を陛下の隣席におかれるのは、この朝食までとなさいませ」
『奴隷』の単語に、隷属の首輪を持ち出した本人であるアージェスは、少なからず衝撃を受けた。
そんなつもりはなかった。
ただ、ルティシアを国王のものである、ということを示したかっただけだ。
それが由来のままに周囲には見られている。
当然といえば当然のことだ。
規律と体裁を重んじる堅物大臣の台詞に、空気が張り詰める。
アージェスは真顔で応じた。
「俺の愛妾だ。奴隷ではない」
大臣が溜息混じりに呆れて言う。
「申し訳ございません。訂正をいたしましょう。ですが、奥方もまだお迎えになられぬうちから愛妾とはお気の早い」
「愛人は腐るほどいるからな」
ルティシアを手元に置いているに過ぎないアージェスにとっては、細かいことなどどうでも良いことだった。
大臣はそれ以上の追求をやめた。
「お妃ではないのならどちらでも構いませんが、あのような容姿の娘を、陛下のお傍に置かれるのは不吉にございます」
アージェスが視線を食堂の出入り口に向けると、憂鬱そうなルティシアが、騎士に連れられて入ってきた。
「黒髪に赤い瞳がそんなに恐ろしいか? 古の大地を焼き尽くしたという黒き悪魔を連想させるとでも? 馬鹿馬鹿しい。こんな小娘に何ができる? 国を支える柱が些細なことで怯えるとは、この国の行く末が思いやられるな」
セレスとその副官が驚いて、顔を見合わせると肩を揺すって笑いを堪えている。
目ざとく無礼な家臣を見つけて咎める。
「何がおかしい?」
彼らはルティシアを盗み見ていた。
彼女はあからさまに嫌そうに国王を見て、その隣に渋々といった様子で席に着いていた。
セレスが真顔を作って謝罪する。
「申し訳ございません。陛下が一人のご婦人をそこまで庇われるのを初めて拝見したものですから、つい」
アージェスは顔を緩めると、隣のルティシアを眺める。
彼女はあからさまに俯いた顔を逸らした。
手を伸ばして頬に触れようとすれば、両手で壁を作って無言の抵抗をする。
昨夜といい、よほど嫌われているらしい。
どこへ行ってもすぐに人の輪に溶け込み、嫌われることが滅多にないアージェスにとっては、新鮮そのものだった。
「見ろ。こんなに敏感に反応されては堪らないだろ? しばらくは退屈せずにすみそうだ」
アージェス自身この時はそう思っていた。
よもや、ルティシアを生涯の伴侶にすることになろうとは、想像さえしていなかったのだ。
アージェスはルティシアに二つのことを命じた。
一つは三度の食事には必ず同席すること。そしてもう一つは、夕食後は王の部屋で過ごすことだった。
後者は、毎夜ルティシアに相手をさせるためではない。
『愛妾』と公言した以上、建前として傍におく必要があった。
とはいえ、アージェスの女遊びが途切れることはなかった。
夜になれば、侍女を捕まえ近くの部屋へ連れ込み、またある夜は、城を抜け出して都の娼館に通うこともある。
その夜は、とある夫人のもとへ来ていた。
夫の目を盗み、火遊びを愉しむ熟女だ。
女は情事を終えた後で、年下のアージェスをからかった。
「隠し子は、もう何人ぐらいいらっしゃるのかしら?」
アージェスは服を着ながら笑って答える。
「一人もいない。産んだという報せはないからな。対策は万全だ。遊んでいるうちは、誰にも産ませる気はない」
「いくら陛下がお望みでなくてもあなたに抱かれた女であれば、おなかを大きくして申し出る婦人がいたとしても不思議ではありませんわ。頂いたお薬を、飲む振りで誤魔化せばいいのですもの」
女は計算高く狡賢い。
「そのときは真実がどうであれ認知しない」
偽らざる本音だ。
夫人のもとを去ると、馬を駆り、数人の供を従えて城へと戻った。
最中、アージェスは先刻の夫人との会話を、頭の中で何度も反芻していた。
玉座にいる限り、避けて通れないことがある。
あがいても、何の解決にもなりはしないことを痛烈に感じるのだった。
真夜中に自室へ戻ると、いるはずのルティシアの姿がどこにもなかった。
用を足しに行っているのかと思い、それほど気にも留めず、アージェスは寝室に入り服を脱いだ。
裸で寝るのが彼のこだわりだ。
寝台に上がるとシーツがやけに冷たく感じられた。
違和感を覚えつつもアージェスは深い眠りについた。
翌朝目覚めると、隣室にはまたしてもルティシアがいない。
着替えを手伝う侍女に問うた。
「俺の兎はまた散歩か?」
「そのようです。何度言っても早朝の散歩はやめられないようです。日中は、殆ど部屋に閉じ篭っているのに。私には理解できかねます」
侍女は批判的にそう言った。
(俺の知らないところで頻繁に外出しているということか)
「もういい。ルティシアにとってはまだまだ慣れない場所だ。好きにさせてやれ」
言いながら自分の台詞に納得し、この時は深く考えなかった。
「かしこまりました……」
侍女はまだ何か言いたげにしていたが、黙々と作業をしている。
仕度を終えると、先に歩いて主人のために扉を開く。
アージェスは入り口で立ち止まった。
「何が言いたい? はっきり申せ」
侍女は頭を垂れた。
「恐れながら申し上げます。陛下はあの娘の血のような赤い目が、恐ろしくはないのですか?」
「お前もか。馬鹿馬鹿しい、俺にはアレが赤目の白兎にしか見えんがな。すぐに怯えて震える。なんとも可愛いではないか」
「ご無礼を承知で申し上げます。皆はそのようには思っておりません。異形の娘と気味悪がっております」
「初耳だな」
アージェスは白々しく答えた。
騎士や侍女、下男下女に至るまで、今や王宮中の者がルティシアのことを悪し様に噂している。問うまでもなく聞き及んでいた。
メリエールの屋敷でも、ルティシアは侍女に散々陰口を叩かれていた。
戦利品の中から彼女を見つけたときから、こうなることは予想していた。承知していたからこそ傍に置いた。
人は恐れるものを見ると危険を感じ、それから逃げるか、あるいは攻撃して排除するかの、どちらかの行動を取る習性を持っている。
ルティシアは何の力も持たぬか弱い少女だ。アージェスに何事もないことが何よりの証拠だ。しかし、妄信する者たちにはその理屈が通じない。
「そなたは城の者たちの代弁者というわけか?」
「左様にございます。皆が陛下の御身を案じております」
「放り出せ、とでも?」
侍女は答えない。
無言を通すことで主の言葉を肯定した。
メリエールのほかの娘たちは、家臣の中で望む者たちがそれぞれ嫁にと引き取っていった。
しかし、誰からも異形の娘と気味悪がられ、産みの親でさえも遠ざけたルティシアを望む者が、果たしているだろうか。
答えは明白だ。誰もいない。召使いにすらしたがるまい。下手をすれば娼館行きだ。
屋敷も財産も、とうに王家が吸い上げた。かつてルティシアが住んでいた屋敷は、既にアージェスの従兄弟連中が住み着いている状態だ。
もはやルティシアに帰る家はどこにもない。
「大げさな。たかだか、小娘一人に何をそんなに騒ぐ必要がある。あれは大人しい娘だ。これ以上の騒ぎは認めん。自粛するように通達しておけ」
「承知いたしました」
侍女は、納得したのかそうでないのか、表情を変えることなく頭を垂れた。