ベルドールの至宝
「疲れた」
ゆっくりと茶を飲みほした茶器を、ルティシアから取り上げた。
甘えるように彼女の膝を枕に長椅子に寝そべる。
すっかりお馴染みの体勢に、体から力が抜けていくのが分かる。
これ以上はない癒しの一時だ。
頭に細い手が当てられ、よしよしと撫でられるのが心地よい。
ルティシアが王宮へ戻ってから半月が過ぎようとしていた。
始めこそ、戸惑いと実感のなさに不安にも駆られたが、子供たちと愛する人を迎えた新たな生活に徐々に慣れようとしている。
執務室でのお茶の時間は、いつも近習が話し相手になってくれていたのだが、今ではルティシアがこうして癒しに来てくれる。
ずっと見続けた夢を叶え、幸せに酔いしれる。
煩わしかった家臣や他の女に気兼ねなく、ルティシアに相手をしてもらえる。
話し相手のお役御免となったトルテには散々冷やかされたが、平然と笑って返してやった。
愛する人に望んでも拒まれない、こんなにも嬉しいことはないではないか。
ロベルトを他国へ行かせることの一点を除けば、アージェスはまさにこの世の春を謳歌していた。
熱く見つめ合って手を伸ばし、白い頬に触れる。
「ルル、愛してる」
何度でも、何十回でも、何百回でも言いたい。
「わたくしも、あなた様を愛しております、アーシュ」
細い指先がアージェスの頬に触れると、唇がアージェスのそれに落ちてくる。
離れると、ルティシアの頬に手を添えてキスを深めた。
求めてやまぬ言葉、心得ているように差し出される唇。
言いたいことがある。
言えずに進めていることを。
覚悟を決めて王妃になってくれたルル。臆病な俺は覚悟を決められずに今日までずるずる先延ばしにしていた。
「……頼みがある」
唇を解いたアージェスは体を起こし、居住まいを正すと、ルティシアの手を取った。
「わたくしにできることでしたらなんなりと」
全てを受け入れようとするかのように、ルティシアは落ち着き払っていた。
彼女の覚悟に背中を押されるように、アージェスは祈りと共に想いを込めて告げる。
「皆の前で俺の求婚を受けたお前はもう王妃だ。だが、正式に婚儀を挙げたい」
後妻を迎えるのに婚儀を行わない王は多いい。
王からすれば二度目であり、面倒だとか、年齢や体面とか。理由は様々だ。
俺はしたい。お前と神の前で永遠の愛を誓いたい。
「……陛下がお望みとあらば」
わずかに困惑の色を見せたが、彼女は優しく微笑んでくれた。
「い、いいのか? 本当に?」
声を上ずらせて聞き返す己に、どれだけ浮かれているのかと呆れるほどだ。
「はい」
快諾したルティシアが、つられるように控えめに声を上げて笑う。
まるで、はしゃぐ子供のようだとでも思われたに違いない。
「もう既に、陛下がわたくしの婚儀用のドレスや、ティアラをご注文になられているとか、噂に聞いておりますよ」
「情報が早いな」
注文した業者には堅く口止めしておいたというのに、一体どこから漏れるんだか。
了承よりも浮かれて先に行動してしまうところは、若い頃と変わらない。
一人グダグダと言えずに懊悩している間に、ルティシアは覚悟を決めてくれていたのだ。
「すまない、勝手に事を進めて」
「いつもの事ではございませんか」と、ルティシアが穏やかに微笑む。
幸せそうに笑う顔に、泣きそうになり慌てて目をこする。
よく晴れた空の下、ベルドール王城の大階段の上。
正装した王子らと重臣を始めとした家臣らが居並ぶ。
階下には多くの民衆が集い見守る中、盛大な婚儀が催された。
国王アージェスの隣には、漆黒の髪に紅玉の双眸をしたルティシアが寄り添う。
アージェスは誰よりも美しく輝く花嫁を見下ろした。
意匠を凝らした純白のドレスに、頭上には白金に金剛石がちりばめられたティアラ。乳白色の胸元には大粒のガーネットが輝く。
どれもが趣向を凝らした特注品、ルティシアの為に贈った最高の品々だ。
贈るのにかかった歳月を思うと感涙する。
神父の前で誓いをした後、アージェスはルティシアの細い腰を抱き寄せた。
「一度目はお前に想いを馳せて婚儀をした。お前以外の女を抱くのはもうごめんだ。こうしてやっと正式に后に迎えられる日が来て、俺は怖いぐらい幸せだ。もう離さない」
「アージェス様、わたくしも幸せです」
熱く見つめ合うと二人は唇を重ねた。
大観衆の中から噂話が広がっていた。
「モントロベルとタルタロゼルの二国の侵略を受けたとき、王妃様は陛下のご帰還を願って瞳を捧げようとされたそうよ」
「おおっ、なんと奇特なっ」
「まるで聖女様のようなお方だな」
「しかも、前王妃や御側妃が儲けられなかった男君を、お一人で四人もお産みになられていたなんてな」
「もっと早くお知らせ下されば良いものを」
「なんでまた、陛下は今まで隠しておられたんじゃろな?」
「宮廷がルティシア様を認めなかったらしいぜ、反逆者の娘だからな」
「逆らったのは父親だろうに。王宮中から『悪魔』と罵られていたらしいぞ」
「お可哀そうに、さぞ苦労なされたじゃろう」
「だからお隠しになられたんだろう?」
「あれだけお美しい方だ。それは建前で、誰にも見せたくなかっただけだったりしてな」
「ほっほっほっ、陛下のお顔みてりゃわかるわい。五人もお子がおられ、四十路にもなろうかというに、初婚みたいに幸せそうなお顔をなされておるわ」
「やだ、本当。見てるこっちが恥ずかしくなるわねぇ」
噂は広まり、やがてアージェス王の隣で微笑む王妃ルティシアは、『戦の女神・ベルドールの至宝』と崇められ、国民から永く愛されることになる。そして母親の血を継いだ末姫は、『紅姫』と呼ばれ、蝶よ花よと民に広く好まれるのであった。