第17話 幸と不幸
ルティシアが気づくと、右手に柔らかなシーツがあり、左手には温かな人肌があった。
ハッとして、左手を引っ込め、息を詰めた。
「私よ。大丈夫だから怖がらないで」
ルティシアが出産するたびに手伝いに来てくれていた婦人、セレスの妻のエミーナがいた。彼女はルティシアに偏見を抱くことなく、優しく気さくで、頼れる姉のような存在だった。こんな人が本当に自分の姉だったらと何度思ったかしれない。
「エミーナ。どうしてあなたが?」
「妊娠八ヶ月でしょう? お産が近くなってきたから、あなたがどうしているのか気になって、顔を見にきたのよ」
落ち着いた深緑のドレスを着て、褐色の髪に同色の瞳をした四十路の婦人が穏やかに告げた。脳裏に、荒々しく扉が開く音と近づく殺気、憎悪を纏っい、馬乗りにされて首を絞められかけた。
激しい怒りをぶつけられ、危うく殺されかけた記憶が蘇り、動悸が早くなり、呼吸が浅くなる。
ルティシアは首を左右に振り、エミーナの手を離すと、這って寝台から下りようとした。
「どこへ行くの? だめよっ」
婦人にしては強い力で、腕を掴まれて引き止められる。
「ここにいてはいけないの」
「どうして?」
「私がいたら、もっと良くないことが起こる」
「ルティシア、落ち着いて。私の話を聞いて」
「ええ、聞こえているわ」
「そうじゃなくて、話をちゃんと聞いて欲しいの。座って」
寝台から下りようとするルティシアを、戻そうとするエミーナ。
手が震え、呼吸が次第に速くなる。
「聞けない。早く行かないとまた……くる」
「誰が?」
「女の人……いいえ、へい……か……」
裏切り者の娘なのに、ずっと傍に置いて守ってくれていた。
誰も彼もに悪魔と嫌われ謗られていたのに、ただ一人愛してくれた陛下。
(幸せになってもらいたくて、青い鳥を刺繍してお月様の下に埋めたけれど……。
結婚して王妃様やご側妃も何人もいらっしゃるのに、私がいるから陛下は気にして時折会いに来てくださった。
だから……。
私が陛下の幸せの邪魔をした。
私がのうのうと生きているから……王宮も後宮の奥方達も不幸になっていく)
息が思うように吸えない。手が、身体が勝手に硬直していく。
ルティシアはその恐怖に耐えながら首を振った。
「私が悪いのっ……。私なんかがいるからみんな不幸になるっ。……いずれ陛下も……この子もっ」
母で、逞しく、ルティシアが不器用で上手くできなくても、大丈夫と温かく励ましてくれたエミーナ。
ルティシアは血を吐くような苦しさで吐露する。
エミーナが、乗り出して、ルティシアの肩をぎゅっと抱きしめた。
「違う。あなたが悪いんじゃないの。人には人それぞれの運命というものがあるのよ。誰かがどれほど願って、貶めても、誰にもその人の幸、不幸を左右することなんてできないの。その人がどれほど苦境にあっても、幸せだと感じれば幸せなのよ。思い出して。……あなた私に言ったじゃない。こんなところに閉じ込められて逃げ出したくならないのって、私が聞いたら、あなたなんて答えたか覚えてる?」
十五年も前のことだ。
ルティシアが初めて子を生むときに、エミーナが手伝いに来てくれた。出産前から泊り込みで来てくれて、楽しい話でルティシアの緊張をほぐしてくれた。
そんなルティシアに、エミーナが聞いたのだ。
ルティシアはこう答えた。
「『そんなこと考えたこともないわ。私は幸せよ。だって、陛下やファーミア、あなたやここにいる人たちがとても優しくしてくれるもの。陛下が許してくださる限り、私はここにいたい。それに、陛下のお子をもったいなくも、私などがこうして生むことを許して頂けるのよ。これほど幸せなことはないわ』」
一言一句忘れてなどいない。何度も何度も同じことを思い、幸せを感じた。
エミーナから見れば日陰の愛妾生活は、幸せそうには見えないかもしれない。だが、ルティシアは自分が不幸だなどと、ほんの少しも思ったことはない。
「今でも私はそう思っているわ」
話すうちにいつの間にか硬直は緩んだが、手の震えは止まらない。
宥めるように、エミーナがルティシアの背を優しく撫でる。
「それでいいのよ。その幸せは、誰にも奪えない。誰にも邪魔できない。あなただけの想いなの。でも世の中にはどれだけ恵まれていても、幸せを幸せと感じられない人もいる。それを人のせいにする人だっているの。あなただって本当は分かっているはずよ。誰かを傷つけるような力なんてあなたにはないことを。そうでしょう?」
ルティシアは震える口元で紡ぐ。
「ええ、私は何もしていないわ。ご側妃が身篭ってらっしゃるなんて、知らなかったもの」
「知らなければ、たとえ誰かを傷つける力があってもできないことだわ。だからあなたのせいじゃない。自分が守れず子が流れたのを、あなたのせいにしているだけなのよ。心が弱いから、誰かのせいにしなければ自分を保てないのよ。大丈夫、陛下もちゃんと分かってらっしゃるから」
『陛下』
その尊称にビクッと体が震え、姉の声が聞こえてくる。
『お前は恐れ多くも陛下を呪い殺すつもりなの?』
(へ、陛下……)
治まりかけた手の震えが戻ってくる。
『お前の呪いのせいで、王家にお世継ぎは生まれず、私は流産したのよっ』
「ち、違う」
「ルティシア?」
女が流産した原因がルティシアにはないと、エミーナは認めてくれた。ルティシア自身も信じたくはないのに、ぐるぐると脳裏に声が聞こえてくる。
『……わたくしにも他の六人の側妃にも、王子を授かることができなかったのです』
『陛下は今、お世継ぎを設けられずに苦しんでおられる』
『……そのような禍々しい姿で……御爺様に侍女、マドレーヌを呪い殺し、父上を狂わせたことを忘れたわけではないでしょうね?』
「わ、私の……私がいるから……陛下に謝罪を……」
「なにを?」
エミーナから離れようとするけれど、腕を掴まれて離してもらえない。
(何を?
私のせいで死んでしまった人がいるの。
私のせいで不幸になった人がいるの。
私がいるから……)
月に祈ったところで陛下は幸せにはなれない。
(悪魔だから……)
エミーナが何かを言っている。声は聞こえるのに、何を言っているのか分からない。
震える手がどんどん硬くなって動けなくなっていく。
(苦しい。
息ができない。
私……このまま……)
パンッ、パンッ、パンッ!
手を打ち鳴らす乾いた音がして、ルティシアはビクッと震えた。
エミーナはなんでもないというように明るく切り替える。
「はいはい、分かったわ、もう考えるのはやめましょう。セレスが王は今とっても忙しいから、しばらくここへは来られないかも知れないって言っていたんだったわ。会えない人のことを考えても仕方のないことよ。ほら、ルティシア、考えるのはやめなさい。そんなに身体中に力を入れたら、お腹の子が苦しくなってしまうわ。今は、この子のことだけを考えてあげて。あなたが、この子を守ってあげなかったら、ちゃんと生まれてくることができないのよ、ね?」
エミーナに硬く強張る手を掴まれて、腹にそっと宛てられる。
お腹の中にいる確かな存在。
(そうだった。
この命に代えても、この子をちゃんと生んであげないと)
ルティシアは唇を噛んで、思考に囚われるあまり一瞬でも忘れていた自分を恥じた。
(死ねない。
この子が生まれるまでは死ねない。
何があっても死ねない。
死にたくない。
アーシュ、あなたの子を私はちゃんと産んであげたい)