第15話 時を越えて 1
「母子共にご無事です。しかし無理は禁物です。当面は心身ともに穏やかにお過ごしになられますように」
御殿医が話す隣の寝台では、ルティシアが落ち着いた様子で、静かに眠っていた。
その顔を見た瞬間、アージェスは心底深い吐息をついて安堵した。
人目も憚らずに、ルティシアの髪を撫で、清潔な布で汗を拭ってやると、顔中に口づけたいのを我慢して、額と唇にだけキスを落とした。
「ああ、承知した」
アージェスは御殿医を労うと下がらせた。
「母上」
かすかに呼ぶシャーリーの声に視線を移すと、ルティシアの枕元で眠る顔を見つめて手を握っていた。
「ずっとお会いしたかった」
「シャーリー」
振り返った息子を抱きしめようと手を広げて見せると、シャーリーは躊躇った。
「なんだ、嫌か?」
「……父上が陛下には近づくなと……あ、いや、その……」
中性的な顔は、少し見ない間に男らしくなっていたが、整っていて美しい。
(どうりで目を惹くわけだ)
以前、セレスに初めて紹介されて一目見た瞬間、目を奪われた。その美貌にあるルティシアの面影に惹かれたのだ。
素性も知らずに顔だけで、ルティシアの身代わりにできると、側妃にまで望んでしまった。
言いにくそうに口ごもり、俯きかげんに照れた様子も母親に似ていて、改めて息子なのだと実感する。
それ以上は待てず、アージェスは半ば強引に息子を引寄せた。
「心配せずともお前にキスなど二度とするか。……俺の息子にしては随分立派に育ったもんだ。セレスには感謝してもしきれないな」
「父も陛下のことを、あ、いえ、その……」
「構わん、ずっとお前を育ててくれたんだ。手放しておいて今更父と呼べなどと身勝手なことは言わん。悪かったと思ってる。……その、なんだ、……気が向いたら俺のことも父と呼んでくれると嬉しい」
ふっとシャーリーが笑う。
「はい、父上」
会ったばかりの父親を息子は受け入れているようだが、少々素直すぎやしないだろうか。
アージェスは激しく動揺させられたというのに、どうも息子は、初対面であるはずの父親を前に多少の戸惑いはあるだろうが、妙に落ち着いている。
「お前、俺が父親ってことを前から知ってたのか?」
「いえ、先刻初めて伺ったばかりです」
「そんなふうには見えんがな」
息子を離すとじっとりと睨んだ。
自分ばかりが、取り乱しているような気がして悔しい。
対する息子は苦笑して話す。
「僕は以前から、父母に本当の両親ではないことを教えられていたんです。親友から預かった大切な息子だと。ですが分け隔てなく育ててもらいました。父が親友と呼ぶ方が、どなたかは父を見ていればある程度予想がつきましたし、心積もりもできていました。ただ、まさかあのような時に教えられるとは思わず、驚きましたが」
「なるほどな」
重臣らに息子のことを明かして探すように命じたばかりだ。
セレスとしては、横槍が入る前に打ち明けておきたかったのだろう。
シャーリーは懐に手を入れると、なにやらごそごそと取り出した。
掴んだ布を広げて、アージェスに見せた。
それは、生まれたばかりの息子をセレスに預ける際、小さな手にたった一つだけ持たせられたものだった。
「僕を生んでくれた母上が、僕の幸せを願って刺繍してくださったものだと聞き及んでおります」
白い布には、青い糸で鳥が羽ばたく姿が美しく刺繍されていた。
「ルティシアが刺繍したものだ。お前の幸せだけを願って。……ずっと持っていてくれたのだな。ルティシアがそれを知れば、どれほど喜ぶことか。お前は、本当に良い息子だな」
刺繍が仕上がるとルティシアは庭に出て、月光が良く当たる場所に、自ら土を掘り返して青い鳥の刺繍を埋めたらしい。
見かねたファーミアが、ルティシアの目を盗んで掘り返してくれたのだ。
気の利く侍女から土を払った刺繍を受け取り、息子の手に渡したのである。
十五年もの時を経て、再び息子の手から見る日が訪れるとは思っていなかった。
目頭が熱くなり、堪えきれずアージェスは俯いて目を擦った。
身勝手に手放した親に怒りをぶつけることも、恨み言を言うわけでもない。よほどセレス夫妻の教育が良かったのだろう。
よくできた頼もしい息子と親友に、アージェスは救われるような思いがした。
「あ、いえ、そんな」
褒められて、シャーリーは居心地悪そうに照れた。
そんな息子に穏やかな気持ちにさせられながらも、アージェスは長椅子に疲れたように座り、手を組んだ。
視線の先には息子の母であるルティシアが、静かに眠り続けている。
「お前を、早くルティシアにも会わせてやりたい。だがな……やむにやまれてお前を手放した負い目がある。その思いは俺よりもルティシアの方がずっと強いだろう。ましてルティシアは、自分の手元にいる方が、お前が不幸になると今も信じているんだ」
「『悪魔』」
息子の口から紡がれた思いもよらぬ忌み名。
アージェスが敏感に反応する。
承知していたのか、反射的に父の鋭い眼光を、一見頼りなげに見える息子は、真剣を手に命を懸けて向き合う騎士のような、強い眼差しで受け止めた。
「僕は以前、こちらの庭に迷い込んだことがありまして、母上とは知らずに一度お会いしております」
「それに関しては聞き及んでいる」
(生憎、今日になってだがな)
王妃マリアの訪問についてもだ。
ルティシアが彼らの訪問を、屋敷の者達に固く王への報告を禁じていたからだ。今日になってオリオンから報告を受けた。
アージェスが彼らをルティシアにつける際に、王よりもルティシアの味方でいるように命じたがゆえだ。ルティシアに信頼できる者を一人でも多く作らせてやりたいが為であったが……。
「僕は政務官です。気になりましたので母上のことは書庫で調べさせて頂きました。……王宮で酷い謗りを受けておられたそうですね」
「生まれた時からだ。そういう環境で育ったがゆえに、自分が誰かを呪い殺すと信じている。いや、信じ込まされたのだ。生まれたお前にもしものことがあったらと、不安がっていた」
シャーリーは悔しげに顔を歪めた。
「僕は身体も丈夫だし、僕を生んでくださった母上にお会いできて幸せです。……母上が落ち着かれるまで待ちます」
「悪いがそうしてやってくれ。……頼むから、急かさないでやって欲しい」
「……はい、父上」
息子は残念そうに、けれど理解してくれているようだった。
(こんなにもよくできた息子がいるのにな)
だが焦りは禁物だ。まずは落ち着かせることが先決だ。
二度も自殺へ追い込んだアージェスは、冷酷なほど己をあっさりと見限るルティシアが恐ろしかった。
また自分を追い詰めてしまうのではないかと不安に駆られ、まともに話せる自信すら持てなくなっている。
(俺はお前を救ってやりたい。
苦しめ続ける呪縛から解放し、お前にこそ本当の幸せを与えてやりたい)