第10話 日陰の愛妾と翳りゆく王妃 2
「わたくしはご覧の通り陛下の奴隷にございます。戯れておられるだけです」
金獅子の『隷属の首輪』を嵌められているのだから奴隷には違いない。だが、王はマリアと結婚する前に、ルティシアを王妃にと公言したのは事実だ。婚約を解消しても、いまだに寝言を零すほど想っている相手を、奴隷のように扱っているとは到底考えられない。
人目から隠されているとはいえ、住まいも着ている衣服も、どれをとっても決して粗末なものではない。まして王は裏表のない性格だ。想いを寄せる相手を、どれほど大切に扱っているのか、目に浮かぶようだった。
ただ一人王の寵愛を一身に受けながら、平然と『奴隷』とのたまうルティシアが、マリアの目には酷く小賢しく映った。
「つまるところ、身体でお相手をなさってらっしゃるのでしょう?」
「陛下は欠かさず避妊薬をわたくしに飲ませておられます」
「嘘を付いてらっしゃるのでしょう、陛下も、あなたも」
王は愛妾に、避妊薬と言って妊娠に差し障らない無害なものを与え、ルティシアは王の子を身篭ったに違いない。
「お帰りください。お話できることはもうございません」
マリアの追及をかわし、おなかを庇うようにして、ルティシアは立ち上がった。
「お待ちになって、申し上げたはずです。陛下は今、お世継ぎを設けられずに苦しんでおられると。あなたになら、陛下をお助けすることができるとはお思いになりませんの?」
(なぜ、王妃であるわたくしがこのようなことを言わねばならないのかしら?)
一瞬でもこんな女と上手く付き合えると思った自分が愚かだった。
ルティシアを後宮に入れれば、間違いなく王は毎晩のように彼女の部屋に入り浸るだろう。そうなれば、きっと嫉妬せずにはいられなくなる。他の側妃たちも、王の寵愛を独占する彼女を恨まずにはいられないはずだ。保ってきた後宮の平穏が乱される。
ふっとルティシアの口元が悲しげに緩んだ。
「悪魔と蔑まれたわたくしが国王陛下のお役に立てることなど、何一つございません。ゆえに、あなた様が王妃になられたのではありませんか?」
皮肉でもなんでもない事実だ。先に王妃にと望まれたのはルティシアの方で、周囲の反対がなければ、今王妃としてアージェスの傍にいたのはルティシアだったかも知れない。
忘れていたわけではないが、マリアは冷水を浴びせられたように、現実を突きつけられたような気がした。
己の責任を棚上げし、世継ぎが設けられないからと、かつて王宮から追い出されたルティシアを、自分たちの都合で今度は世継ぎを生めと、傲慢に押し付けているのだ。
だがもう残された道は他になかった。己や後宮の平穏を悠長に気にしている猶予など残されてはいないのだ。世継ぎ問題はもはや自国だけのことではなかった。既に外交にも多大な影響を及ぼし、諸国はベルドールの隙を伺っている。
「あなたの仰るとおりですわ。ですが、わたくしにも他の六人の側妃にも、王子を授かることができなかったのです」
王妃として、女としての矜持をかなぐり捨てて苦渋を呑んだ。けれど王宮の切迫した事情を知る由もないのであろう愛妾は、マリアから背を向けた。
「陛下はまだまだお若く、盛んなお方ですから、そのように諦められるには早うございます」
愛妾はさらりと信じがたい台詞を残して去っていった。
まるで鈍器で殴られたような強い衝撃を受けて、マリアは眩暈を覚えた。
急に重くなる頭を抱え、テーブルに突っ伏し、溢れそうになる涙を、ドレスの裾を掴んで必死で堪えた。
「マリア様、いかがなさいましたか」
席を外していた侍女が戻ってきて、マリアに声をかけた。
「なんでもないわ。王宮へ戻ります」
気丈に振る舞い、後宮の自室に戻ると、堪えきれずに声を殺して嗚咽した。
まるで別人の話を聞かされているような気がした。王が結婚前から女好きで、誰彼構わず寝台に誘うような軽い男だという噂なら聞いていた。だがマリアが知る実際のアージェスは、一晩に一度マリアを抱くとそれ以上は求めない。結婚当初から『盛ん』からほど遠い淡白な夫だった。
近頃は不感症の疑いまである王に、『盛ん』というほど求められているのかと思うと、どす黒い嫉妬が身の内を焼き尽くすようだった。
マリアは新たな側妃を選出しようとしている議会を止め、ルティシアを側妃にと提案しようとしていた。
それが残された選択であり、王にとっても、世継ぎ問題解決の為にも最良なのだ。分かってはいるが、胸をかきむしりたくなるような苦しみ、王妃としての誇りさえ踏みにじられる口惜しさに、決心は揺れに揺れ、自分を取り戻すのに数日を要した。