第8話 王妃の矜持
「食事を取っていないようですね。よろしくありませんわ。しっかり召し上がって元気にならなくては」
後宮内を取り仕切ることも、王妃の務めだ。
マリアは寝台で横になる年若い側妃を見舞った。
流産したバーバラは、その後体調を崩し床から離れられなくなっていた。
日に日にやつれ、以前はふっくらとしていた頬が、まるで別人のようにこけ、顔色は悪く、どこを見ているのか瞳は虚ろだ。
マリアが話しかけると、目から涙を溢れさせ、口元をわななかせた。
「陛下は、わたくしにとても優しくしてくださいました。……『世継ぎを産んでくれたら、そなたの望みを何でも叶えてやろう』と、何度も仰ってくださいました。それなのに、わたくしは……」
同じだ。
世継ぎを産む可能性を見出しているときの王は、妻にとても優しい。
マリアにとってもそうだった。
たまらずバーバラの手を包むように両手で握った。
「もう良いのです」
「いいえっ!」
バーバラは泣き叫びながら、勢いよく上体を起こした。
「なぜ、陛下も、あなた様も、誰もわたくしを責めないのですか?」
王は妻の失態を責めることはしない。
だがそのかわりに、一度期待に応えられないと判断すると、掌を返したように冷たくなる。
バーバラがこれほどまでに憔悴したのは、王の急変した態度によるところが大きい。
「では、あなたはわざとお子が流れるようなことをなさったのかしら?」
「いいえっ、いいえっ。わたくしは大切に、大切に御守りしようとしておりました」
涙を拭おうともせずに必死で言い募った。
マリアは椅子から立ち上がると、哀れな側妃をそっと抱きしめた。
「それで充分ではありませんか。どんなに懸命に励んでも、上手くいかないことがあります。それが人というもの。神ではないのですから。誰のせいでもありませんわ。ですからこれ以上、ご自分を責めてはいけません」
誰が責めることなどできようか。
マリアが初産で娘を産んだ後、アージェスは見限ってすぐに側妃を迎えた。
幸せを描いていたマリアの夢は無残にも打ち砕かれ、孤独の闇へと突き落とされた。
だが、マリアにとって救いだったのは娘がいたことだ。
本来なら王妃は王の次の子を授かる為に、子育てへの参入は許されないのだが、王が側妃を迎えたことで宮廷から認められたのである。
娘の世話をすることで、マリアは母としての自信を持つことができた。
同じ道を辿る他の側妃も、そうして後宮での自分の居場所を見出している。
だが、バーバラは我が子を腕に抱くことすらできなかったのだ。
見捨てられた子のない側妃にとって、これ以上惨めなことはない。
「マリア様っ、……う、ううっ」
バーバラはマリアにすがり付いて号泣し、マリアはまるで自分の娘のように、優しく何度も彼女の頭を撫でた。
やがて、バーバラは泣きつかれて眠るように意識を失い、マリアは彼女をそっと寝台に横たえた。
自責の念に駆られて幾日も眠れなかったのだろう。
涙で濡れた頬を拭っても起きる様子はなかった。
後のことをお付の侍女に任せると、マリアは音を立てないように部屋から出た。
そこへ、報せがもたらされる。
「陛下が、新たにご側室を迎えられるとのことです」
「また、側妃を?」
後宮の一室を確めにいけば、既に新しい側妃が迎えられる準備が行われていた。
娘が生まれる度に増えていく側妃。
バーバラは生まずに見捨てられた。
かつて女たらしと浮名を流していた頃と、現状が同質のものではないのは明白だった。
王には、マリアと結婚する前から想う婦人がいるのだ。
『喜べマリア。陛下がお前を王妃にと望んで下さった』
屋敷に帰ってくるなり父のパステルが、そう言ってマリアの手を取ったのは、十七年も前のことだ。
『メリエールの娘とご結婚なさるのではなかったのですか?』
『悪魔のような見目の娘など王妃にできるわけがなかろう。改心なさったのだ。メリエールの娘は王宮の外へ出された』
娘が生まれた日からパステルは、娘を王妃にすることを強く望んでいた。
マリアもまた王妃になることを夢見て、厳しい英才教育を受けてきた。
しかし、念願を叶えて嬉々とする父をよそに、マリアは素直に喜べなかった。
それまでの王が、他の婦人も目に入らぬほど、メリエールの娘に執心と聞き及んでいたことが気になっていた。思えば、マリアはこのときから不信感を抱いていたのかもしれない。
それが徐々に明らかとなったのは、初産後のことだった。
側妃を迎えるまでの間、王に他の女の影は見えず、執務を終えた後は、私室で一人静かに過ごしているようだった。
しかし、それは見せかけにすぎなかった。
週に一度、間が空けば半月に一度の間隔で、極僅かな供をつれて出掛けていたのだ。
それも決まって、皆が寝静まる頃に出かけ、明け方前の暗い時分に戻ってくる。
衛兵に至るまで緘口令が敷かれ、王妃のマリアが直に主の行き先を問い質しても、決して口を開かぬ徹底ぶりだった。
疑問に答えたのは父だった。
『王宮の外れの森に屋敷がございます。陛下はその屋敷にメリエールの娘を住まわせ、時折会いに行っておられるようですな』
『やはり……』
頭のどこかでは分かっていたが、実際に言葉で聞かされると、少なからず衝撃を受けてしまう。
出産後も、マリアは夫を支えようと彼女なりに努力を重ねてきた。
けれど、冷め切った夫はどれだけ尽くそうと、心を許さず、笑顔一つ向けない。
そんな王が二度目の懐妊を狙って、訪問を受けたときはどれほど嬉しかったことか。
ところが喜びは束の間に終わり、かつてない苦渋と屈辱にまみれることになった。
初産から十五数年。
久方ぶりに寝台を共にすれば変化は歴然だった。
マリアは王妃としていつまでも若々しくいるために努力していた。
体型を維持し、三十路を過ぎても肌は吸い付くようにしっとりと滑らかで、若々しさを保っていた。
しかし肉体美を誇る后と肌を重ねても、王の体は昂ぶらなかった。
愕然とするマリアに、アージェスは淡々と寝台での奉仕を教え込み、根気よく付き合っていた。
感情が追いつかない彼女は、それでも懸命に尽くしたが上手くいかなかった。
「……うっ、……ふっううっ」
涙を堪え切れなかった。
「もういい」
暗く告げられて、マリアは声を上げて泣き出し嗚咽を必死で押さえた。
「申し訳……」
頭を下げかけて、逞しい筋肉質の胸に引寄せられた。
「謝るな、今日は疲れているだけだ。こんなことで謝られたら、俺の方が立ち直れなくなる。その方がはるかに問題だ。お前は王妃だ。必ずもう一度懐妊させてやるから我慢しろ」
慰めるわけでも、励ますわけでもなく、『我慢しろ』と言われて、マリアは余計に涙を溢れさせた。
『頑張れ』といわれたらそれは重圧となるが、王妃だと改めて自覚させておきながら、『我慢しろ』と言ったその裏には、アージェスなりに彼女の立場を案じた優しさがあった。
マリアはその言葉に救われる思いがした。
「もう少しだけこのままで……お願い、します」
「ああ、喜んで。……これだけで許してくれるなら俺も助かる」
厚い胸板に、男らしい肌の匂いと温かさ、マリアは改めて今でも夫を愛していることを自覚した。
同時にその想いが通うことの無い一方通行であることも。
今までも、そしてこれからも交わることのない想い。
苦しく悲しい涙が夫の胸に流れていく。
薄暗い室内でマリアは夫を見上げた。
虚ろな目が宙を彷徨っていた。
この人は何を想いながら、その気にもなれない自分や他の側妃を相手にしているのだろうか。
想う人が別にいながら。
自分なら、夫以外の愛してもいない男に抱かれることが出来るだろうか。
考えただけでゾッとした。
マリアにとってアージェスと肌を重ねる時間は、妻として、女として至福の一時だ。
だが、彼にとっては……。
マリアは急ぎ、新たな側妃の話を掌握しているであろう、宰相を訪ねた。
「父上、なぜこうもお急ぎになられますの? バーバラを迎えてまだ一年も経とうとしておりませんのに」
宰相の執務室で人払いをすると詰め寄った。
パステルは娘から逃げるように顔をそらし、言いにくそうに紡ぐ。
「陛下のご命令です。『後宮には抱ける女がいない』と仰られましたゆえ」
マリアはドレスの裾を掴んで握り締めた。
額面どおりの意味であることを、彼女は身をもって知っている。
はじめから、王が望む女など後宮にいないのだ。
この先何人、何十人もの婦人を後宮へ入れたところで何も変わりはしない。
それどころか、意に沿わぬ行為にもはや王の身も心も疲れきっているではないか。
誰よりもそのことを王自身が分かっているはずなのだ。
「だからといって、むやみに側妃を迎えられても同じことではありませんか。父上とてご承知のはず」
「ならば他に打つ手がおありですかな、后殿下」
父は私情を挟まず一国の宰相として娘を見据え、マリアは王妃として決然と対峙する。
「時間をください。確証が得られましたら、わたくし自ら議会に提案をさせて頂きます」
「いいでしょう。大臣らが承服するような良き提案をお待ちしておりますぞ」
「無論ですわ」