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第6話 苦い選択

 初めて懐妊したときからだ。

 ルティシアは、幸せを噛み締めるように膨らんだ己の腹をさすっていた。

 しかし、腹の子が育つにつれ、笑みを消し、憂いを滲ませるようになっていた。


「無事に生んであげられないかも知れません」   


 ぽつりとこぼした不安。

 アージェスは優しく抱きしめて、宥めるように肩をなでた。


「医者は何も問題ない、順調だと言っていた。定期的に診させてはいるが、何か異変があればすぐに診させる。案ずることなどなにもない。それにだ、俺の子が軟なわけがない。俺に似て厚かましいに決まってる。避妊薬だって効かないんだ、殺されたって死なんさ」


 安心させようとアージェスは言葉を尽くすが、ルティシアは頭を垂れるように更に身を縮めた。


「無事に生んでも……」


 ルティシアは言い淀んだ。

 少し前から毎晩のように夢にうなされていると、侍女のファーミアから報告を受けていた。

 ただならぬ怯えにも似た不安が、どこから来るのか分かっていた。

 忘れもしない。ルティシアの姉達から聞き及んだ親兄姉による生まれた時からの洗脳と虐待。

 身内の不幸の全てをルティシアに転嫁して、悪魔と決め付け、責められ続けた。

 それに追い討ちをかけた王宮ぐるみの誹謗中傷は、ルティシアの心に鋭く爪痕を残したことだろう。

 呪いとも言うべき洗脳は、今もなお心の闇に深く巣食っているに違いない。

 己がまだ凶運を招くと思い込んでいるのだろう。

 何度も何度も滅多刺しにされた心は脆く、まるで薄いガラス細工のようだ。

 ほんの少しの衝撃で粉々に砕けそうなほどに危うい。

 

 カタカタと小刻みに震えだし、体を離して覗き込むと、ルティシアは震える指先で、自分の閉じたまぶたに触れていた。

 

(己を追い詰めて怯えるのか)


 やりきれない憤りに、アージェスはひたすら耐えた。

 

「お許しください、陛下。あなた様に授けて頂いたお命だというのに、わたくしが……奪ってしまうかもしれません」


 まるでこの世の終わりのように嘆いて、絶望にうちひしがれる。

 これほど愛しているというのに、ルティシアを支配する闇を払えない。

 やりきれなさでいっぱいになる。だがここで間違えれば、またルティシアを追い詰めかねない。

 死に急ぐルティシアを二度も目の当たりにした。

 三度目は……。

 床に倒れて血を流し、息絶えている姿が脳裏に過る。


(そんなことがあってたまるかッ!)

 

「里親を探しておく。生まれたら預ければいい」


 ルティシアには育てられない。

 宿った命を腹の中で守ってやるだけで精一杯だろう。

 出産は母子共に命の危機と直面する一大事だ。

 女にとっては、出産を乗り切るだけでも大変なことだ。しかも愛妾であるルティシアには子を設ける責務はない。

 余計な負担をかける必要がどこにある。

 ただアージェスだけが、ルティシアと子のいる生活を夢見ているだけだ。


「宜しいのですか?」


 希望を見出したように縋りついてくる。

 例え生まれた我が子にどれほど恨まれることになろうと、これ以上ルティシアを追い詰めることなどアージェスにはできない。


(おまえが生きていてくれるだけでいい。その為なら、俺はいくらでもおまえの望む言葉をくれてやる)


「俺には必要のない子だ。それに、こんな隔離された場所で育てるより、よほど健全だ」


 自分で言っていて情けなくも泣きたくなってくる。


「はい。ありがとうございます、陛下」


 アージェスの苦悩をよそに、安心しきった顔は眩しいほどに美しかった。 

 その後、ルティシアは無事に出産を終え、一月後には慈愛に満ちた母の顔で、まるで旅立つ我が子を送り出すように、誇らしげにアージェスに託した。

 彼女は、自分の手元で育てるよりも、自分から離れた場所で育つ方がその子にとって幸せなのだと、信じて疑っていないのだ。

 自分で言い出しておきながら、動けなかったアージェスは、里親など全く探してはいなかった。

 そこで、王都に整えたばかりの孤児院に入れることにした。

 他の孤児たちにまぎれるように入所時期を合わせたのである。

 周囲に親を特定させない為だ。

 素性が露呈して王宮に知られることだけは、なんとしても避けたかった。

 ルティシアを排除した王宮だ。利用など決してさせない。死へと追い詰められたルティシアの為に、そして愛しい女を正妃に迎えられなかった己の為に。将来手元に戻すことすら、アージェスは諦めた。


 孤児院へ送り届ける役には、無二の親友をおいてほかには思いつかなかった。

 生後一ヶ月の我が子を、アージェスはセレスに委ねた。


「子供は誰だって、どんな親であろうと母親が世界で一番好きなんだ。なのに俺は引き離した。俺は子供の幸せより、ルティシアの心の平穏を選んだんだ。……そうやって大人の都合で、親が生きているのに、我が子を孤児たちの中に入れるのだからな。最低だ」


 セレスは、アージェスの肩をポンと叩く。


「何言ってんだ。王の子でしかも第一子でありながら、強欲な権力者達に利用されずにすむんだ。裕福な環境がなくても、何にでもなれる自由がある。お前は本来なら与えてやれない、自由を与えてやれるんだ。おまえ自身がもっとも望んだものをだ。羨ましい限りじゃないか」


 先王の八男として生まれたアージェスは、望みもしない玉座に就かされ、自由を奪われた。

 友の言葉に瞠目し、奥歯を噛み締め、込み上げそうになる涙を必死に堪えた。


「……そうだな」


 アージェスは、ルティシアに子が生まれるたび、孤児院へ入れた。

 ルティシアは、身篭るたびにそれを快く受け入れ、大切に守って出産する。

 産声を上げて一月の間、侍女や手伝いに来てくれたセレスの妻に手を借りながらも、己の乳を含ませ、赤子の世話をしていた。

 ほんの短い期間、ルティシアがどれほど幸せそうに過ごしていたことか。

 可愛くないはずがない。それなのに手放すときは、躊躇い一つ見せずにあっさりと手を引くのだ。

 たまにしか顔を見ないアージェスでさえ、別れるときは辛くなるというのに。

 ルティシアの胸中を思うといたたまれなくなった。

 だから、幸せそうに腹をさするルティシアを見ていると言いたくなる。 


(できる限りの手を尽くすから、手元で育ててみないか?)


 だが、情けなくも飲み込んでしまう。

 アージェスを想うあまりルティシアは何をした。

 目を潰しかけ、食事を拒んでやせ細り、死にかけた。

 手元で育てて、子に何かあったとき、ルティシアはすぐに自分を責めるだろう。


「何も心配は要らない。お前の子は可愛いから、孤児院に行ってもすぐに里親が見つかる。どの子も大切に育てられているらしい。次の子も大丈夫だ。必ず幸せになる」


「はい、陛下」


 幸せそうに微笑む。その笑顔を曇らせるのが、アージェスは何よりも怖かった。

 抱き寄せると、ルティシアが身を委ねて寄りかかってくる。

 当たり前にある幸せを知らずに育ったルティシア。

 自分が得られるとは少しも信じていないのだろう。

 自分のせいで誰かが傷つかないようにすることばかり気にして、平気で自分を傷つける。

 自分さえ我慢すればいいと思っている。

 何も変わってはいない。

 幸せにすると誓ったというのに、いつまでも変えてやれない。

 自責の念に苛まれる中、彼女の確かな温もりが何よりも尊く、今こうして生きて腕の中にいてくれるだけで良かった。



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