第2話 花園の貴婦人
父が部下に呼ばれると、シャーリーは訓練場へ行くようにと指示を受けた。
一人にされた彼は、廊下にある柱の鏡を覗き込んだ。
端正な顔には、筋の通った鼻梁に、青い瞳、縁取る長い睫。
赤みを帯びた唇に白い頬。
男らしい顔とは言い難い。
うんざりと溜息をつくと鏡から背を向けた。
幼い頃、父の友人がその娘を連れて家に遊びに来た時のことだ。
初対面の少女に挨拶をしようとして、いきなり頬に平手打ちを食らった。
『あなたなんか、大嫌いっ!』
少女が叫んだかと思うと大声で泣き出したのだ。
わけが分からずシャーリーはぽかんと口を開いた。
周りにいた大人たちが娘を宥めながら、理由を聞くと、シャーリーが男でありながら自分よりも可愛いことが許せなかったらしい。
以来、シャーリーは、常に髪は短く切り、木剣を持っては兄達と稽古に励んできた。
顔立ちはどうすることもできないが、成長するにしたがって顔つきが男らしくなったと周囲からも言われるようになってきた。
ようやく自信が持てるようになってきたところだったというのに、女と間違われた挙句、キスばかりかいきなり求婚されたショックは大きい。
相手が国王であり、父の手前取り乱さぬように耐えるしかなかった。
(王の言うとおり、早く忘れるしかない)
袖で唇を拭うと、シャーリーは足早に訓練場へと向かった。
外へ出て、馬小屋を横切った時、中から男達の声が聞こえてきた。
「頼むよ、一晩で良いからおまえの弟貸してくれよ」
会ったこともない騎士だったが、その隣にシャーリーの兄ポトスの姿があった。
シャーリーは慌てて物陰に身を隠した。
「何の為に?」
「暇な夜にすることなんて決まってるだろ。次の休暇に酒代奢ってやるから、いいだろ?」
「その方が娼館で女を買うより安上がりだしな」
「だろ? それに、おまえの弟はそこいらの女よりよほど別嬪だ。不満なら同じだけ払ってもいい」
「そんなに気に入ったのなら、当の本人に直接交渉するんだな」
ポトスが冷淡に言い捨てると馬小屋から出てきた。
入り口付近にいたシャーリーは、出てきたポトスを見上げた。
二歳年上のポトスは、父と同じく背が高い。
目が合うなり、無表情で弟の肩を軽く叩いた。
「人気者は辛いだろうが、これもおまえの試練だ。例えおまえに男の恋人ができようと、俺はおまえの兄貴だ。それは変わらない。まあ、がんばれ」
そう言ってポトスはシャーリーをその場に置き去りにし、馬小屋からは兄弟の会話を聞きつけた兄の同僚が出てくる。
男は下劣な笑みでポトスの弟を眺めた。
ポトスは感情が薄く、時折周囲が理解し難いことを言う。
意味不明な言葉の中に兄なりの優しさがあるのだと、シャーリーは前向きに解釈した。
兄弟間で必要以上に甘やかさないのは、父の教育方針だ。
「僕は絶対に嫌だからね」
「そんなこというなよ。おまえがここに早く馴染めるように俺が手伝ってやるから」
伸びてきた腕を両手で掴むと身体を捻った。
大きな身体が宙を舞う。
地面に打ち付けられた男は呻いてシャーリーを睨んだ。
「おまえっ」
男が立ち上がるよりも早く、シャーリーは得物の先を男の喉下に突きつけていた。
それは投げ飛ばす時に素早く奪った剣だった。
鞘はつけたままだ。叙任を受けた騎士以外の者の抜刀は固く禁じられている。
だがそれだけで充分だった。
全身で放つ殺気と睨みに、男は見開いて怯え、ゴクリと喉を上下させた。
「僕は男だ。僕が見習いだったことに感謝してよね」
男はコクコクと頷き、シャーリーは剣を喉元から引いた。
慌てて立ち去ろうとする男を呼び止める。
「忘れ物」
男から奪った剣を投げ返す。
「次は木剣を用意してきてよ。稽古ならいつでも相手してあげるから」
「……あ、ああ」
男はばつが悪そうに返事をすると去っていった。
シャーリーは無性に苛立ち、近くにいる馬に気づくと無断で鞍をつけた。
王宮の敷地は広大で、訓練場から離れた場所は森のように木が生い茂っている。
騎乗したシャーリーは当てもなく馬を走らせ、いつしか深い木々の奥へと入り込んでいた。
不意に湿った土に足を取られて馬が傾いた。
突然姿勢を崩したシャーリーは、体勢を戻せず馬から落とされる。
派手に転げて、折れた木の枝が足を掠めた。
体を起こして馬を探すと、逃げたのか馬はどこにもいなかった。
辺りは静まり返り、誰もいない。
それどころか、自分が今どこにいるのかも検討がつかず、見渡しても道らしきものすらない。
何も考えずに苛立つままに走ってきた為に、既に来た方向も見失っていた。
これから弓の訓練を受けることになっており、ゆっくりもしていられない。遅れたら大目玉を食らう。
急いで立ち上がろうとして、右足が痛んだ。
どこかで切ったらしい。ふくらはぎの衣服が裂けて、血が出ている。
痛みを堪えながら歩き出した。
どれぐらい歩いただろうか。
息が上がり喉がカラカラに渇く頃、木々の開けた場所に、整然とした庭が見えてきた。
赤や白、黄色や薄紅色の薔薇が咲き乱れ、花の香りが鼻腔を掠めた。
門の向こう側に人がいる。
癖のない長い黒髪の女が一人、庭先で椅子に座っていた。
その背後にシャーリーは息を乱しながら近づいた。
気づいた女が立ち上がって振り返る。
「……どなた?」
鳥のさえずりのように透き通った声だった。
優美で上質なドレスを纏った貴婦人は、珍しい真紅の双眸に、輝くほど美しい。
シャーリーは思わず見惚れ、言葉を発するのに数瞬かかった。
「……無断で入ってきてしまい申し訳ありません。道に迷ってしまい途方にくれていたところ、あなたを見つけたものですから」
森の中に隠れるように佇む屋敷。
そこにいた美しい婦人。その白く細い首に嵌められた金の首輪。
(この婦人は、一体? なぜこんな場所に)
「それは大変。ファーミア、ファーミア」
婦人が人を呼ぶと、直ぐに侍女がやって来る。
「あら、この方怪我をなさっているではありませんかっ」
「まあ、本当。では直ぐに手当ての用意を。それから何か冷たい飲み物をお出しして」
「はい、承知いたしました」
侍女が屋内へ戻っていく。
「ありがとうございます」
シャーリーが礼を言うと、婦人が振り返る。
「あなたのような美しい方とお会いできて光栄です。僕は、シャーリー・アルドリスと申します。父は、この春、陛下より正規軍総司令官に任じられたセレス・アルドリスです」
婦人が驚く。それもそうだろう。なにせ父は軍の頂点に立つ男なのだ。
シャーリーの自慢の父だ。
だが婦人が驚いたのはそのことではないようだった。
「まあ、あの方の……」
今度はシャーリーが驚く番だった。
「父をご存知なのですか?」
「ええ、でも何度かお会いしたことがある程度ですが」
話すうちに侍女が薬箱を手に戻ってきた。
彼の近くに置くと、直ぐに引き返し、しばらくすると飲み物を持ってきた。
婦人はその間に、庭先のガゼボへとシャーリーを招き、椅子を勧め、侍女が持ってきた薬箱の蓋を開いた。中から包帯と消毒液の瓶を取り出すと、シャーリーの足元に膝をついた。ズボンの裾を捲くり上げ、手当てをしてくれた。
「手当までして頂いてありがとうございます」
「いいえ。大したことはしていないわ。それよりもお茶をどうぞ」
促されて、侍女が持ってきた冷たいハーブティで喉を潤した。
「ありがとうございました」
侍女より訓練場までの道を教わると、婦人に礼を言う。
「いいえ」
穏やかで気品に満ちた澄ました顔は、シャーリーが知る誰よりも美しく、頼りなげだった。
「また、こちらに伺っても宜しいですか?」
「いけません。二度とこちらにはお越しになられませぬように。わたくしの事もお忘れください」
「なぜですか?」
婦人は顔を伏せると、静かに踵を返した。
「理由は申し上げられません。とにかくお引取りを」
何も答えずに婦人は去っていき、代わりに侍女がそう答えた。
それ以上は食い下がれず、シャーリーは渋々訓練場へと戻った。