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第35話 生涯を掛けて 1

 冷え切っていた手に温もりが戻る頃、ルティシアの眉がピクリと動き、閉じていた瞼が開かれる。


「陛下」


 アージェスはルティシアを腕に抱き上げた。


「ルル。こんなところで寝るな、風邪を引く」


「申し訳ありません。……」


 謝罪の後、彼女は何か言いたげに口を開いたが、思い直したのかすぐに閉じた。

 アージェスはそんなルティシアを静かに見下ろして言う。


「暇ができたから息抜きに来た」


 嘘だった。

 本当はずっと会いたくてたまらなかった。

 だがもう本音は言うまい。


「そうですか、ではごゆっくりなさって下さい」


 とても嬉しそうに、ルティシアは微笑を浮かべた。


「ああ」


 ルティシアの額にアージェスは唇を寄せた。

 彼女の私室に入ると、ファーミアが茶菓子を用意し、午後の一時を二人で過す。

 殆ど会話はないが、アージェスには気にならない。

 紅茶を楽しんだ後は、長椅子でルティシアの膝を枕に横になる。

 彼女の腹部に、アージェスは耳を当てた。

 きゅるきゅると食べたものを消化する音が聞こえてきて、アージェスは苦笑する。


「まだ何も反応がないな」


「懐妊というのは、間違っていたのではないでしょうか?」


 医者を呼びつけ、ルティシアを診断させたのは半月前のことだ。

 情報漏洩を恐れて、王宮の御殿医は避け、都で開業医をしている友人に頼んだ。

 やぶ医者という不名誉な噂は聞かないから問題はないだろう。


「そうだな、この腹では説得力に欠ける。だがあと数ヶ月もすればはっきりするだろう。誤りであれば、腹が膨れることもないだろうからな。だが完全に否定もできんのだから、無理はするなよ」


「はい」


 笑顔で返事をしてくれるが、なんとも信用がない。


「お前は自分に優しくないからな。いいか、お前の腹だが、子は俺の子だ。大事にしてくれよ」


「承知しています……」


 ルティシアは申し訳なさそうに俯く。


「なんだ?」


「……陛下にはお迎えになられたばかりのお后様がおられますのに……避妊のお薬も利かず申し訳ありません」


 アージェスは仰向けになる。

 王宮からこの館へ移り住んでからのルティシアは、随分と晴れやかな表情を見せるようになった。

 痩せた身体に徐々に体重が戻り、頃合を見計らってから、アージェスは夜伽をさせるようになった。ルティシアはもうアージェスを拒むことなく受け入れていたが、抱いた後は決まって不安げに避妊薬を欲しがった。

 ルティシアとの子を望んでいたアージェスは、避妊薬と偽って妊娠を妨げない滋養剤を与えた。騙されているとも知らずに安心するルティシアを、アージェスは存分に愛した。

 ゆえに当然の懐妊だった。


「避妊薬がお前に合わなかったか、あるいは俺の子種が強すぎたのだろう。できたものはしかたがない。世継ぎは、后が産むんだ。例えおまえが男児を生もうと、王位継承権は与えん。王の子と、公にするわけでもないのだから、気に病むことはない。人口の少ないこの国に一人でも多く子を設けることは民の義務だ。お前もその一人なのだから、子は大事にせねばならん。分かったか?」


「はい、陛下」


 暗い表情が、野に咲く可憐な花のような笑顔に変わるのを、アージェスは切なく見つめた。

 彼の望むことはルティシアを喜ばせることができない。

 それどころか彼女を苦しめる材料にしかならない。

 そのことに、アージェスは時間をかけてようやく知ることができた。

 やっと心からの笑顔を見せてくれるようになったルティシアだ。表情を曇らせたくはない。


「俺が来なくても、しっかり食べて、ちゃんと休め」


「はい。私のことはご心配なさらずに。どうか、お后様と睦まじくなさって下さい」


 ルティシアが言うと嫌味に聞こえない。僅かばかりも嫉妬が含まれていないことに、アージェスは傷つく。そうとも知らずにアージェスのことだけを想ってくれていると分かるだけに、泣きたくなるほど辛くなる。


「……ああ」



 隠れ家に住まわせた後、アージェスは王宮に、彼女の六人の姉達を呼び寄せた。ルティシアにとって、殿内の腐りきった環境もさることながら、これほどまでに頑なになる根源を知りたかったのだ。

 面談役には戦利品として召し上げたときに世話役をした騎士を宛て、ルティシアについて自由に話させた。

 生い立ち。生まれて直後に、ルティシアの目を見て突然死した祖父とその侍女。そして生まれたばかりの妹の死と、背信した父メリエールの話。

 決して人の目を見ぬよう常に俯くようにと、家族や侍女らに厳しく躾けられて育てられたこと。

 王の怒りをかい処罰を受けるように命じたこと。

 ここぞとばかりに、さも当然のように悪し様に吐く姉たちの暴言は尽きなかった。血の繋がった実の妹だというのに。処刑した兄らを含めれば、十数人いた兄姉達。ただの一人もルティシアを庇う者はいなかったのか。そこには情の欠片も窺えなかった。

 壁を隔てた廊下で、アージェスは腸の煮えくり返るような怒りを、ひたすら耐えて聞き続けた。

 王宮で再会したとき、一人部屋の片隅で、小さくなって怯えていたルティシア。どれだけ王の権力を振りかざそうと、甘く愛そうとも、アージェスを拒み続けた。涙を堪えて、決してアージェスに頼ることもなく、姉達の命に懸命に従おうとしていたのだろう。

 王宮から離れた今も、王と距離を取ろうと必死だ。

 それほどまでに姉達の脅威が、ルティシアの中に根強く残っていることを意味している。

 もはや洗脳だ。

 

 おかげでアージェスは何度もルティシアに拒絶され、求婚のたびに自殺を図られた。

 追い詰めて紅玉の瞳は危うく失われそうになった。

 どれほど賞賛される宝石よりも美しい至宝を、アージェスは失わずに済んだことは幸いとしか言いようがない。


『まあ、陛下、お久しぶりにございます』

 

 聞くに堪えかねる中傷が飛び交う中、部屋に入ると、姉達が黄色い声を上げてすぐさま礼をとった。


『この度は宰相閣下ご令嬢のマリア様とのご結婚、お慶び申し上げます』

『愚妹が陛下のご高名に傷をつけるのではと冷や冷やしておりましたが……』


『アレは自殺を図って死んだ』



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