第33話 五分の魂 1
戦からアージェスが無事に帰ってきた。
ルティシアはそれだけで嬉しく、アージェスの所有物でいられるならそれで良かった。
けれど、ルティシアが王妃に選ばれたことで、家臣らの怒りを露わにした視線は一層厳しくなった。
王命もあり、不満を直接ぶつけてくる者はいなかったが、風のようにどこからともなく、彼らの声は聞こえてきた。
「宰相閣下のご令嬢をはじめ、名だたる名家の姫君がいらっしゃるというのに」
「陛下はもう側近方の話すらお聞きになられぬそうだ」
「悪魔め、陛下のお心を掴むとは忌々しい」
「あの娘の食事に毒でも盛ってやれ」
「そうだ。あんな小娘、死んでしまえばいい」
物語の結末は、幸福でなければならない。
国をまたも救った凛々しく雄雄しい英雄は、美しいお姫様と結婚し、末永く幸せになるものだ。
醜い悪魔が寄り添う結末などありはしない。
誰も望まない。
多くの家臣らから愛される国王の結婚が、誰にも祝福されないものになってしまう。
そんな結婚が幸せであるはずがない。
「まだ、起きているのか?」
寝台の毛布の中、ルティシアはアージェスの毛布を、彼だと思っていじり続けていた。
不意にすぐ近くから声をかけられて、無骨な手が頬を撫でた。
彼はすぐ隣にいて、ルティシアに腕枕をしてくれている。
自分などにはもったいない優しさだ。
身じろぐと、アージェスが質問を変えた。
「何をそんなに考えている?」
以前の陛下からは考えられないほど柔和な口調。
王宮に帰還してからというもの、彼はルティシアをまるでガラス細工のように大切に扱っていた。
寝台を共にしても、ルティシアの肌に触れようとはしてこない。
その代わりに、腕に納めて離そうとしなかった。
「何も考えていません」
「それならいいが、……何か気に病んでいることがあれば話してくれないか?」
(婚約を解消して、御家臣が勧められる婦人をお選びください)
話したところで、王を怒らせてしまう。
戦前もそれでこっぴどく怒りをかい、挙句何度も抱かれた。ルティシアにとってアージェスに抱かれることは決して嫌なことではない。
寧ろ悦びだった。
辛いのは、子種を授かることだ。
ルティシアが懐妊することを、王の性生活を管理する侍女長官が恐れているのだ。口には決して出さないが、ルティシアが王に抱かれた残骸のシーツを見るたび、国家の一大事ぐらいに恐々としていた。
それはすなわち家臣らの本音を意味し、拒絶されているルティシアには、激しく精神を抉るほどの居心地の悪さだった。
けれどルティシアは、アージェスに分かってもらえるように伝える術もなく、彼は他の婦人の事を少しでも彼女が口にすると、怒って口を塞いでしまう。
全く話にならない。
それでも気の弱いルティシアにしては、精一杯反論し、抵抗してきた。懐妊していなかったことは、彼女にとっても、家臣らにとっても幸いに他ならなかった。
ベルドール人の大半が褐色の髪と目を持つ中、異なった色を持っていても、ルティシアはベルドール人だ。愛国心もあれば、誇りもある。
王が、アージェスだと思えばなおのこと。
国の為、愛する我が王の栄光の為にありたい。決して、足枷になどになりたくない。
「何もございません」
愛する人の傍にいられる幸せを噛み締めて、ルティシアは微笑んだ。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
木々が紅葉し、肌を刺すような冷たい風が吹く。
季節は巡り、秋が深まり冬が訪れようとしていた。
珍しく晴天が広がる朝、ベルドール王宮には多くの民が詰めかけていた。
いつまでも独身を貫こうとしていた国王の婚礼が盛大に挙げられようとしている。
沢山の花で飾られた豪奢な馬車が、城の大階段の真下に横付けされ、花嫁が降り立った。
花の冠に、見事な刺繍の施された純白のドレスを纏った花嫁が、出迎えた宰相の手をとる。
民の見守る中、大階段の上で待つ国王アージェスの元へと向かった。
エメラルドの双眸を輝かせ、風に亜麻色の後れ毛がなびく。
王冠を頭上に戴いて正装したアージェスは、やってきた花嫁を無表情で眺めた。
愛しい女に思いを馳せながら、彼は神の前で宰相パステルの息女を王妃に迎えた。
宴は朝まで続き、浮かれた城下町ではお祭り騒ぎが数日続いた。
後宮に花嫁のマリアが移り住むと、陰気な城内は急に華やいだ。
后候補の中でも最も有力視されていた公爵令嬢であっただけに、多くの家臣が胸を撫で下ろしている。
アージェスの私室には、もう誰も住んではいない。
始めから誰もいなかったかのようにひっそりとしている。
国王である彼だけが、取り残されたように現状を受け入れられないでいた。
自分の選択が間違っていたとは思わないが、ルティシアを想えば耐えるしかなかった。