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第32話 紅玉の魔力

 半年振りに帰還した彼を待っていたのは、すっかり恐れをなした家臣たちと民衆だった。

 笑みで王を迎える者は一人もいない。

 皆、いつ自分が王の反感を買って首を刎ねられるのではないかと、戦々恐々としているのだ。 

 アージェスは群集の中に黒髪の少女を探したが、見つけることはできなかった。


 大広間で留守中の報告を受けた後は食堂へ向かった。

 大半の家臣が戦場から帰還したこともあり、疲れた様子で席に着く。

 会話をする者は殆どおらず、食前の祈りが終わった後は、皆黙々と食事を進めるだけだ。

 アージェスは空席になっている左隣に目を向け、随分前にルティシアの護衛に就けていた騎士のオリオンを見つけて呼びつけた。


「俺の花嫁を連れてこい」


 食事の場が静まっていただけに、国王のよく通る声は室内に響き渡った。


「花嫁?」


 誰からともなく声が上がり、寝耳に水の知らせに家臣一同は主君を注視した。

 慌てた様子で重臣たちが身を乗り出し、口々に問いただす。


「いつの間にお決めになられたのです」

「どこの誰なのです?」

「陛下?」

 

 アージェスはそれらの声を黙殺する。


 御意、とオリオンが一礼して食堂を出ていく。


 水を打ったように静まり返った室内では、家臣らが疲れたように溜息をついていた。



 再び食堂の扉が開かれると、その場にいる全ての者たちが入り口を見た。

 先ほどの騎士オリオンの後から、侍女のファーミアを伴って黒髪の少女が顔を俯けたまま入ってくる。

 王の側近らは冷ややかな視線を向けた。


「このような異形で逆賊の娘をお后に……」


 今この場で言っておかねばならないとばかりに口を開いた重臣は、国王を振り返った瞬間に口を閉ざした。

 研ぎ澄まされた刃のような王の鋭い眼光は、殺気を放っていた。

 ルティシアが静々と彼の傍までやってくる。


 パンッ!


 乾いた音が鳴り響く。


 ファーミアが壁際へと下がるや否や、アージェスがルティシアの白い頬を平手で打ったのだ。

 その成り行きに家臣らが息を呑む。


 無防備だったルティシアの身体は、殴られた衝撃で床へと倒れた。

 傍で控えていた愛妾付きのオリオンもファーミアも、主君のただならぬ剣幕に慄いている。


「食事の席には必ず同席しろと命じていたはずだ」


 倒れたルティシアは、緩慢な動作で上体を起こすと、四肢を丸めるようにして床に平伏した。


「申し訳ございません」


 アージェスは細い腕を掴み、無理やり立たせ、利き手で腰に携えた剣を鞘ごと抜き取ると、剣で卓上の食事を床へと薙ぎ払う。

 銀食器が床へと散らばり、何もなくなったテーブルクロスの上にルティシアを押し倒した。


「どうした? いつもみたいに叫んで暴れたらどうだ? ……それとも、お前も俺が恐ろしくて口も聞けないか?」


 凍てつく真冬の風のような低く冷たい声音は、身じろぎもできずに成り行きを見守る家臣おも畏怖で震え上がらせる。

 しかし、正面からそれを受けるルティシアは、震えることもなく落ち着き払っていた。

 それどころか、開いた真紅の瞳に涙を溢れさせ、口元に笑みさえ浮かべて、アージェスの双眸を見つめている。

 太陽を知らぬかのような白い手が、恐る恐るアージェスの頬に伸びてくる。

 細い指先が遠慮がちにアージェスの頬に触れた。

 閉じられていた朱唇が動く。


「あなた様がとてもお元気そうで安心いたしました。無事のご帰還、心よりお歓び申し上げます、……」


 盛り上がった涙を目尻へと流しながら、ルティシアは小さな声で彼の愛称を囁いた。

 『アーシュ』と。

 アージェスは息を呑む。己の耳を疑った。


「わたくしはあなた様の玩具にございます。お気の済むまで弄ってくださいませ」


 何もかもを包み込むような、慈愛に満ちた聖母のような穏やかな表情に、アージェスは怒りを忘れた。

 遠く遠く離れた荒野にいても、憂いを宿した紅玉の瞳を一日たりとも忘れたことはなかった。

 人を捨て修羅となり、数え切れぬ敵兵を切った。友の死を悲しむ暇もなく、敵を憎み、恨み、切って、切って、切りまくった。

 身も心も泥と血まみれになりながらも、想っていたことはルティシアの事だった。早く会いたいと、何度願ったことかしれない。

 会いたいと、抱きしめたいと、強く願っていたからこそ、こうして戻ってくることができた。

 やっと、ようやく戻ってくることができたのだ。

 

 テーブルに押し倒した身体を掻き抱いて、ひしと抱きしめて黒髪に頬を寄せた。

 万感の想いを込めて呼ぶ。


「ルティシアっ」

 


 逞しい胸に抱きしめられて、ルティシアはアージェスが無事に帰還した安堵の涙を流し続けた。

 彼の留守中、悪魔の囁きに耐えきれなくなったある夜、忌まわしい両目を潰そうと本気で考えた。短剣を手にして突き刺そうとした刹那、駆けつけてきたオリオンが素早くルティシアの手を掴んで阻止したのだ。

 

『どうして止めるのですっ! こんな呪われた目があったら、陛下が死ぬかもしれないのですよっ!』


 短剣を掴んだ手から、剣を無理やり奪われながら泣き叫んだ。

 息を切らしたオリオンは、怒りを露わにしてルティシアに説教した。


『なんて馬鹿なことをするんですっ! あなたの眼はただ赤いだけです。例えあなたがその目を潰しても、人は死ぬときは死ぬんですっ! どれほど陛下があなたを愛しておられるか、考えたことはないのですか!?』


 オリオンにそう言われて初めてアージェスの事を考えた。ルティシアを自分のものだと。死ぬことは許さないと言ってくれた。何よりも、ルティシアを守り愛してくれたことを思い出す。


「陛下がご不在時、ルティシア様は陛下を案じられて、あろうことかご自身の眼を潰されようとなさいました」


 片膝をついたオリオンが苦々しく報告した。


「誠か?」


 アージェスは驚愕してルティシアを離して、泣きぬれた真紅の双眸を食い入るように見つめた。

 呑んだ鉛を吐き出すように、ルティシアは苦しげに息を継ぎながら一気に吐露する。


「怖かったのです。凶運をもたらす呪われた紅い瞳が。あなた様が敵の刃に切り裂かれるのかと思うと、恐ろしくて、恐ろしくて眠れなかったのですっ。あなたを失うことが、私には耐えられなかった。どんな些細なことでもいいから縋りたかった。この瞳さえなければ、あなたが無事に帰ってきてくれるような気がして、潰そうと思いました。それをオリオンが止めたのです」


 いつも物静かで決して己の本心を口にしない彼女が、身を投げ出すようにして告げた想い。

 アージェスは、ルティシアを胸に引き寄せて、抱きしめる腕に力を込めた。

 

「なんという愚かなことを考えるんだ。お前の眼はただ色が赤いだけで、何の力もない。俺が愛している瞳だ」


 苦し気に告げると、アージェスは顔だけオリオンに向ける。


「オリオン、よくぞ助けてくれた、心から礼を言うぞ」


「護衛として当然の事をしたまでです」


 オリオンは頭を垂れた。


「殴って悪かった。お前がずっと俺の身を案じて帰りを待っていてくれたのなら、それだけで充分だ。もう二度と、目を潰そうなどと愚かなことは考えるな」

 

 顔を離すと、アージェスは改めてルティシアの鮮やかな真紅の瞳を見つめ、瞳が潰されずに済んだことに、心底神に感謝した。

 拒絶してばかりのルティシア。責めてばかりいたことが悔やまれ、目を潰そうとまで追い詰められた苦悶が理解できた。


 顔を離すと、アージェスは目じりに唇を寄せ、華奢な身体を両腕に抱き上げて歩き出す。

 横抱きにされたルティシアは、腕の中で萎縮して俯く。

 腕に小さな体を抱いて部屋の入り口で立ち止まると、水を打ったように静まり返っていた一同を振り返る。


「ルティシアを余の正妃に据える。異議あるものは余の刃を受ける覚悟で申せ」


 緩みかけていた空気が、一瞬で張り詰める。

 誰一人として口を開くどころか物音一つ立てようとはしない。

 抱かれているルティシアの鼓動だけが、ドクドクと聞こえてきた。

 もう誰にも何も言わせない。この時のアージェスは、結婚こそがルティシアを何よりも幸せにしてやることだと、信じて少しも疑ってはいなかった。

 


 愛妾を抱えて国王が去ると、家臣らは一様に溜息と共に脱力した。


「してやられましたな、あの小娘に」


「全くだ。王を射止めるとは、なんたるあざとさか」


 重臣らが口を揃え、宰相のパステルが無表情でひとりごちる。


「悪魔に魂を売り渡したが如き、冷酷非道になられた陛下を人に戻し、心を奪うか。いやはや、恐るべき魔力よ」



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