第26話 ルティシアの誓い
王が言ったとおり、花びらのような痣は身体中につけられており、ドレスを着ても露出する胸元や首筋にもつけられていた。
侍女のファーミアに化粧をされる際、ルティシアはその跡を消してくれるように頼んだが、断られた。
アージェスが消さぬようにと、王命を残していたのだ。
昨日から部屋を出る際は、どこへ行こうともファーミアが付き従うようになり、行き違う王宮の者達は、不躾な視線を向けて声を潜めて話していた。
「王はあんな悪魔娘に、また酔狂なことをなさる」
「陛下にふさわしい令嬢は、いくらでもおられるというのに、いつまで戯れを続けられるおつもりか」
「近頃特にあの娘にご執心のようだからな。早く改心され、しかるべき婦人をご正妃に迎えていただかねば」
「間違っても呪われた娘だけはやめてもらわねばならん」
「あんな娘を選ばれたらこの国はおしまいだ」
「陛下には賢明なご判断を願うばかりだ」
ルティシアは俯き、耳を塞ぐこともできず、それどころか耳ざとく聞いてしまうのだった。
聞こえてくることは、言われなくとも全て承知している。けれど、アージェスにキスをされるようになってからのルティシアはおかしかった。
着衣のすべてを国王付きの侍女が管理しており、毎朝の着替えの際には下着まで取り替えさせられていた。そのため月のものも、おりものの時期もすべて侍女に把握されている。
違う汚れがあれば一目瞭然だ。
侍女の目が光り、厳しく問い詰められた。
「陛下と男女の契りを交わしたのですか?」
「男女の契りとは何ですか?」
何をそんなに真剣になっているのかも分からず、ルティシアは訊ねた。
三十半ばの侍女は恥ずかしげもなく、無知な王の愛妾に淡々と分かりやすく説明した。その上で、王を受け入れたのか、と問い質してきた。
歯に絹着せぬ侍女の物言いに、ルティシアは眩暈を覚え、自分でも分かるほど耳まで真っ赤になった。
「い、いいえ、そのようなことはございません。へ、陛下はわたくしを弄んでおられるだけで、そのようなことはなさいません」
「そうですか」
侍女は短く答えたきり何も言わなかった。
酷く恥ずかしく、厳しい視線は咎められているようでいたたまれない。
何も気にせずルティシアにちょっかいを出すアージェスを恨めしく思ったが、彼女自身も彼に触られると、その心地よさに酔わされて、抗えなくなるのだからどうしようもない。
何度も触れられるうちに、身体がすっかり気持ちよさを覚えてしまい、アージェス自身を受け入れたいと望むようになっていた。
だが、求婚されて耳に姉の声が聞こえてきた。
『お前は恐れ多くも陛下を呪い殺すつもりなの?』
冷水を浴びせられたような気がした。
そもそもルティシアは反逆者の娘で、首輪を嵌められた奴隷だ。主であるアージェスが、ルティシアに対して貴族の令嬢として扱う必要などどこにもない。
まして、結婚など論外だ。
言動が一致していない。何を考えているのかも分からず、翻弄されるばかりだ。
優しくされてルティシアは夢を見させられていただけだ。
危うく流されるところだった。
もう少しで、取り返しのつかないことになっていたかもしれない。
そう思うともう、ルティシアは王をほんの少しも受け入れられなくなった。
怒らせて当然のことをしたのだ。それなのにルティシアは、不快にさせたことを早くも後悔し、背を向けられて、苦しくて苦しくて、自分など死んでこの世から消えてしまえばいいと、自暴自棄になって死のうとした。
気がついたら朝になっていて、やけに寒くて体を見たら裸で、しかも痣だらけ。病気にでもなったのかと驚いていたら、陛下にもっと驚くことを言われてゾッとした。
つけられた痣を不快に思ったわけではない。狂気の沙汰とも思えるアージェスの執着に呑みこまれて、また流されるのではないかという懼れからだ。
その上、痕を見せ付けるように、腕や首、胸元を露出させて人前に出させるのだから、アージェスにはほとほと困らされる。ルティシアがどんな目で家臣らに見られているのか、知っているはずなのに。彼らの負の感情を煽るだけだと、陛下は気づいてくれない。
陛下はルティシアが拒んだことを酷く怒っている。
ただ、相応に扱ってもらいたいだけなのに。
情事の後を匂わすような羞恥を曝し、ルティシアは片手で喉もとの痣を手で隠した。
食事の間に入ると、重臣らが目ざとく見咎めてざわついた。
席に着く頃に、王がやってくる。ルティシアは逃げ出したいのを堪えた。逃げたところですぐに連れ戻されるだろうし、おまけに陛下は昨日から機嫌が悪い。さすがのルティシアもこれ以上怒らせるつもりはない。
いっそう身を小さくして、居心地の悪さに耐えるしかなかった。
室内は急に静かになり、いつになく不機嫌な王の登場で、室内がビリビリと緊迫し、皆背筋を伸ばして閉口した。
侍女や侍従らによって各人に料理が運ばれ食事が始まる。
ルティシアは食べる気にならず、首から手を離すこともできずにじっと時が過ぎるのを待った。
「食事を取れ、残さず平らげるまでお前の退席は禁じる。それと首から手を離せ、俺の愛を恥じる気か?」
(お前を愛して何が悪い!)
言外に、彼は厳しい口調で告げていた。
決して揺れることのない不動の意思は固い。
力強く抱きしめられているようで、嬉しくて、嬉しくて、涙が溢れる。
声を上げてアージェスの胸に飛び込めたらどれほど幸せだろうか。
彼はきっと抱きしめ返してくれるだろう。
だがそんなのは自分には許されない甘い夢だ。
ルティシアは瞼を閉ざし、唇を固く引き結んで嗚咽を堪えた。
「……申し訳ありません、陛下」
首から手を離すと、ぽたぽたと涙が落ちて、しょっぱくなる食事を口にした。
まるで、流れる濁流の中にいるようだった。
(あなたは私に言ったじゃない)
『俺だけの力ではない。この国を支える有力なものたちがいてこそだ。その力ある者達を制御し統括するのが王の務めだ。舵取りを誤れば、大国に挟まれたこの国はあっという間に侵略されて王家は滅ぶだろう』
『……守るべき者達がいるからだ……』
(私は掴んだ枝を離さない。どれほどあなたを怒らせて、どれほど困らせても、もうあなたを受け入れない)
(あなたが好きだから、アーシュ)