第24話 嵐の夜に 1
昼下がり、アージェスは庭に下りた。
大広間に面して造られた庭園は、腕利きの庭師たちが一日として欠かさず手入れをしている。
春を迎えた庭は、季節ごとに趣の違う花々が咲き、婦人ばかりではなく騎士たちの心まで虜にする美しさだ。
庭にあるガゼボで、アージェスは近習の入れる紅茶を飲んだ。
屋根から柱、テーブルやベンチ、床に到るまで全てが大理石で造られている。
離れた場所で城に出入りする者たちが、庭先を横切るたびに、花に目を奪われて立ち止まっていた。
(居室に住まう婚約者は、城で最も美しい場所に訪れただろうか?)
答えはすぐに想像がつく。
人目を恐れるルティシアが、人の集まる場所へ来るとは思えない。
アージェスは遠い目をしてぼやく。
「裏庭ばかり歩きやがって」
(しかも夜中に。まあ、もっとも最近は俺の腕の中で大人しく寝てるがな)
「兎ちゃんのことですか?」
トルテが主人の独り言を拾い上げて茶目っ気に聞いてきた。
悪気のない友人の笑顔に、アージェスの口は軽くなる。
「まあな」
「でしたら、ここへお呼びになってはいかがですか?」
無理です。
ルティシアのはっきりとした声が聞こえてきそうだ。
厚顔が売りなアージェスも、求婚を断られた心の傷は深い。また断られたらと思うと気が滅入る。
「……そのうちな」
テーブルに置いていた飲みかけの紅茶を、近習が下げる。新しく紅茶を注ぎ、湯気が立ち上る茶器を主君の前に用意した。
悩ましく溜息を漏らして、アージェスがそれを飲むと、トルテがクスリと笑う。
「なんだ?」
「溜息をなさってますよ」
「俺が?」
「先ほどから何度も」
自覚がまるでなかった。
親しげな眼差しでトルテが励ます。
「あなたの深い愛情は、きっと届きますよ」
見透かされたアージェスは、羞恥を覚えて顔を逸らす。
「……だと良いが」
夜が更け、近衛を伴いアージェスは私室へ戻った。
騎士が閉ざされた扉の柄に手をかけたとき、とっさにアージェスはそれを制した。
「いかがなさいましたか?」
目を固く閉ざすと、ゆっくりと息を吐き出す。
これまで数え切れないほどの婦人と肌を重ね、夜を共にしてきた男が、情けないほど臆病になっていた。
戦場では武勇に長けた騎士とまみえようと、決して怯むことなどない。むしろ血が騒ぐほどだ。弱さなど決して誰にも見せたことはなかった。
あろうことか、一人の女を前に躊躇している。
今朝の求婚まで持っていたはずの自信はどこへやら。昨夜の調子でやればきっとルティシアは自分を受け入れる。
(大丈夫だ)
情けなくも、自分に言い聞かせねばならないとは。この事態に嫌気がさす。
(こんなことならカッコつけて求婚などしなけりゃよかった。どうせ今夜抱くつもりだったんだ。あのままの流れで抱いて、抱きまくって、懐妊するのを待てばよかったものを)
考えても後の祭りだ。
憂いを溜息と共に吐きだすと、アージェスは扉の柄に手をかけた。
いつになく弱気な国王に、騎士達が顔を見合わせて怪訝な顔をしていた。
やれやれと、アージェスは疲労を感じながらまた溜息をつくと入室した。
「おかえりなさいませ、陛下」
部屋に入るなり、既に扉付近に来ていたルティシアが、丁寧に頭を垂れた。
硬い挨拶は気に入らないが、出迎えてくれたことにほっとする。
トルテの言う通りだ。誠意は伝わる。
後悔もあるが、やはり、誤魔化さずにちゃんとしてやりたい。
「ああ、ただいま」
背後で騎士らの手で扉が閉ざされ、アージェスは上体を起こしたルティシアを緩く抱き寄せた。
確かな温もりを腕に納めると、それだけで身体が熱くなる。
黒髪に額を寄せて囁く。
「ベッドへ行こうか」
早く抱きたい、と口から出そうになるのを辛うじて堪えてそう告げた。出てきた言葉もたいして変わらないが、直接的な言葉で身構えられるのだけは避けたかった。
ルティシアは少し間を置いたが小さく頷いた。
覚悟はしてくれているようだ。
昨夜は初めから抱くつもりがなかったからまだ冷静でいられたが、今夜はそうもいかない。
やけに胸が高鳴って、気が急く。
掻っ攫うように抱き上げて、ベットに投げ込み襲いかかりたい衝動をぐっと堪え、小さな手をまるで壊れ物のようにそっと握った。
緊張しているのか、ルティシアの手は今日も冷たく冷え切っていた。
アージェスはちらりと部屋の暖炉を見たが、火はつけられていなかった。
春といえども朝晩は冷え込む。他の部屋ではまだ暖炉に火が入れられているというのに、部屋の主であるアージェスが、体温が高く暑がりなせいで気が回らなかった。
気心が知れていれば勝手に暖炉に火をつけるだろうが、ルティシアには難しいだろう。
(明日にでも侍女に、暖炉に火をつけておくように命じておくか)
それにしても、と室内を見回す。
アージェスの部屋に住んで数か月が経とうとしているというのに、ルティシアの私物が何一つ置かれていない。
普通なら同居せずとも恋人になるだけで、相手の物が存在感を示すように部屋に増えていくものだ。一緒に住んでいて自分の物を一切置こうとしないのは、存在を消しているのと同じことだ。ルティシアが部屋にいなくなれば、彼女がそこにいたという証は何も残らなくなる。まるでいつでも出て行けるようにしているようで、アージェスは己の漠然とした不安の一因がそこにもあるのだと気づく。
手を繋いで隣室の寝台へ入ると、ルティシアを横にならせて毛布を肩までかけてやる。
アージェス自身は、目の前で上半身だけ寝衣を脱ぐと、彼女の隣に身を滑り込ませた。
ただ寝かされただけのルティシアは、毛布の端を掴んで隠れるように、頭の先まで毛布を被ってしう。
隔離されて育ったせいか、あるいは未だ男を知らないせいか、こういう仕草はまだ子供っほい。
薄暗い室内で身を寄せて、手探りで腰に手を回した。
「顔を見せてくれないのか?」
毛布を下ろして、おずおずと頭を出したが、顔を俯けてしまう。
自分に自信がなく、自己評価が低い。
美人だというのに、どうしてこうなのか。
アージェスは労わるようにルティシアの頭を優しく撫でた。
何度か撫でた後で、顎の下に手を差し入れて顔を向けさせる。
口づけようとして、顔をそらされた。
視線だけならいつものことだったが、顔まで逸らされるとなると、それはもう明らかな拒絶だ。
「今朝の約束はどうした?」
不快感は口調を厳しくする。
ルティシアが小さな体をいっそう縮込めた。
「あ、あの、私は陛下のものです。ですから、このようなことをなさらずとも、私は陛下のものです……」
二度繰り返した『陛下のもの』が、『者』ではなく『物』に聞こえるようだった。
愛する女ではなく、慰みの奴隷として扱われたがっているように聞こえて、頭の中が赤く染まる。
(言うなよ)
「ですからどうか、他のご婦人を……ふっ」
アージェスはルティシアの口を手で塞いだ。