第23話 言葉の通じぬやつら
寝台で目覚めたアージェスは、天幕から出て部屋の窓辺に立った。
東の空がほんのりと赤く染まり、その下の山際から神々しい光が空へと放たれている。
眺めるうちに、太陽が昇りくる。
「おはようございます、陛下」
抑揚のない小さな声が背後からかけられた。
アージェスが起きたときは、ルティシアはまだ眠っていた。昨夜のまま、下着だけの裸体を曝していたのだが、寝台から出てきた小さな麗人は寝衣を着ていた。
残念に思いながら、明日の朝はルティシアの身体を存分に拝んでやろうと企んだ。
「おはよう、ルル。ここへおいで」
手招くと、素足でひたひたとやってくる。
以前に比べると随分と素直になったルティシアは、アージェスの目にこの上なく可愛らしく映る。
目をそむけて嫌がるような素振りをするくせに、抱きしめても口づけても、抵抗らしい抵抗をしない。
キスに酔いだすと涙を流しながら切なく一途に見つめてくる目は、恋する女のそれにしか見えなかった。
その後で抵抗を見せられても、恥ずかしさゆえにしか思えず、離れようとされると、余計に愛しさが募る。
自己評価が低いのか、自信なさげに俯くところも、遠慮がちなところも、独占欲を掻きたてた。
どうでもいい女なら戯れもなしに抱く。それで女の方も悦んでいるわけだからお互い様だ。
だがルティシアだけはぞんざいに扱いたくなかった。
敵視する多くの者達に傷つけられ、一人苦しみと孤独に耐えている健気な少女に、誰よりも優しくありたかった。
いつもは尊称でしか呼ばないのを、昨夜は甘く『アーシュ』と呼んでくれた。おかげで嬉しさ余って、襲い掛かりたくなるのを堪えるのに一苦労だ。
ルティシアを寝かしつけても、昂ぶった熱情は冷めず眠っても眠りが浅かった。このままでは寝込みを襲いそうだと自覚して、寝入ったところで離れようとした。ところが、細い腕が背中に回され、足に足を絡められて動くに動けなかった。いや、力はまるで入っておらず、離れようと思えば簡単に抜け出せたが、愛しい女に抱きつかれて悪い気はしない。まして、普段は決して自分から近づかないとあっては殊更だ。
ひとしきり抱擁を堪能した後で、まさかの謙遜と他の女を勧められたときは苛立ったが、こんなふうに抱きつかれると、瑣末なことは帳消しになる。
どこか寝づらそうにもぞもぞするので、胸の上に乗せるようにして仰向けになると、吐息を付いて気持ち良さそうに寝息をたてた。
(この俺に禁欲を強いて、さらに、禁欲の俺を抱き枕にするとは大した女だ)
規則正しいルティシアの呼吸を聞いているうちに、アージェスにもようやく睡魔が訪れて眠りについた。
束の間、禁欲のせいで悶々とする身体は欲求不満を訴えてアージェスを目覚めさせた。さすがに我慢も限界で、起き上がろうとして、腕に抱きついて眠っているルティシアに思わず顔がにやける。
添い寝するようになってから、ルティシアの夢遊病は一切なくなった。
安心して傍にいてくれているようで、それも嬉しいことの一つだ。
(次の夜は必ず抱くからな)
抱きたいのを我慢して、ルティシアの唇に重ねるだけのキスをして離れた。
窓辺に立ったアージェスの前に来たルティシアは、俯いてこちらを見ようとしない。いつもと変わらないようでいつもと違う。
屈んで頬に口づけると、顔を赤らめる。
(なんて可愛い顔をするのか、崩れた相好が戻せないではないか)
ルティシアに、『隷属の首輪』を嵌めたのはアージェスだが、主従関係など求めてはいない。彼女との関係は、あの屋敷で出会ったときのまま。そうであって欲しかった。
尊称も敬語も遠慮も要らない。
(欲しいのはお前の心からの笑顔だ)
頤を捉えると、顔を上げさせ口を唇で塞ぐ。
腰を浚い、背をかき抱いて、唇に吸い付く。
視線を逸らしていた目は、アージェスのキスを受ける間に涙を含んだ。アージェスを切なく見つめる。朝日の中でキラキラと輝く真紅の双眸は、どれほど賞賛を称えられる宝石よりも儚く美しい。
「俺の后になれ」
潤んだ大きな瞳が、こぼれんばかりに開かれる。
「い、今なんと……?」
驚きすぎて最後まで言葉が継げられないのか。
アージェスは繰り返す。
「俺の正室になれと言った」
「む、無理です」
扇情的な陶酔から一変、ルティシアは青褪めて頑なに拒んだ。
腕から逃げようとするが、細腰をがっちりと掴んで阻む。
予想していなかったわけではないが、はっきりと拒絶されるとさすがに凹む。だが、甘いだけの時間は終わりだ。迫り来る日の為に現実を見なくてはならない。
沈む感情をおくびにも出さず、切り替えたアージェスは、ルティシアを厳しく見据えた。
「これは王としての命令だ。お前に選択肢はない」
ルティシアが眉根を寄せて必死の形相で嘆願する。
「陛下、どうかお考え直し下さい。私など、あなた様の奥方にはふさわしくありません。それ以外のご命令であれば、どんなことでも、どれほど厳しいお言葉にも従います。ですからどうかお聞き入れください」
甘えるのはキスと睡眠時だけか。
現実的なことになると、とたんに卑下して逃げ出す臆病な兎になる。
(まあいい、そんなに王妃の冠が嫌なら逃げておけ。王妃なんざ面倒なもんだ。形式もどうでもいい。そんなものは後からいくらでもこじつけてやる)
片腕で華奢な身体を捕らえたまま、もう片手で喉元から顎を掴む。
「何でもするというのだな」
「はい、陛下」
「アーシュと呼べ」
「……アーシュ」
(昨夜は聞いたこともないような可愛く、強請るような甘い声で呼んでくれたのにな)
自信なさげに目を伏せ、遠慮がちに呼ぶ小さな声に、愛しさ余って憎しみさえ覚える。
「そうだ、ルル」
大事にすると約束した。だが、こんなふうに拒まれたらもう、我慢ならずにめちゃくちゃにしたくなってしまう。
(俺だけは、お前に優しくしてやりたい。だから、これ以上俺を拒むな)
「お前が望まぬのなら、婚儀は挙げまい。その代わり、今夜お前の全てを俺に委ねろ」
「なぜ、それほどまでに私に拘られるのですか? 陛下のお相手には、他にもっと相応しい方がいくらでもおられるはずです」
『あのような鶏がらで、見目の不吉な娘の何がそんなに宜しいのかは存じませぬが、お傍に置かれるのでしたら他にいくらでも、陛下に釣り合う美しい娘はいましょう』
宰相を筆頭に、重臣らの毎日のように聞かされる嫌味を交えた異口同音には、うんざりしていた。それを糞がつくほど真面目な当の本人までが同じことを言うのだから、怒りを通り越して呆れてくる。
(どいつもこいつも、同じ言語で言ってやっているというのに、通じない頭の固いやつらだ)
「言ったはずだ、愛していると。その言葉に偽りはない。欲しいのはお前だけだ」
いつからルティシアのことをそこまで想うようになったのかは、自分でも分からない。
はっきりしているのは、もう手放せないほど愛しているということだ。
それ以上、ルティシアが語ることはなかった。
手を離すと、何か言いたげに向けられた乾いた唇にキスを落とす。
アージェスは寝室から出た。