第17話 甘露と辛酸の狭間で 2
「ルルおいで、一緒に寝よう」
夜、執務を終えて寝衣に着替えて戻ってきたアージェスに誘われた。
長椅子で横になろうと毛布を手繰り寄せていたルティシアは、ビクッと過剰なほど驚いた。不躾な反応をしてしまったことを誤魔化すように、俯いてもじもじと躊躇った。
「あ、あの……でも、私は……」
「夜中の散歩も行きたければ行かせてやる。何も無理強いはしない。だからおいで」
一度入れば抜け出せないほどの心地よい毛布のような、温かな人。
国王陛下。
遠い、遠い、雲の上の殿上人。
これ以上近づいて良いはずがない。
甘えて良いはずがない。
(だけど、だけど私は……)
(私は陛下に飼われた玩具。私の意志など関係ない。望まれたことに従うことが……私の務め)
体のいい言い訳だ。
自分に限りなく都合の良い言い訳に納得して、幼子のように抱き締めている毛布を手に長椅子から降りる。
アージェスがルティシアの手から毛布を抜いて抱えた。
代わりに持ってくれるらしい。
空いた手を差し伸べられて、ルティシアは遠慮がちにその手をとる。
たかだか目と鼻の先、隣室の寝台までのほんの僅かな距離、手を引かれて歩く。
繋がれた手が温かく、気持ちまで温められるようでぽかぽかしてくる。すぐに手を離されても、同じ寝台で一緒に眠れるのかと思うと、どきどきと胸が高鳴り、小躍りでもしたくなるほど嬉しくなった。
けれど、浮かれていることを悟られないように、ルティシアは俯き続けた。
広すぎる寝台に先に上がらされると、ルティシアは端へと向かった。
後から上がってきたアージェスは、寝台の中央に身を横たえると、すぐ隣のシーツを手で軽く叩いた。
「お前の寝るところはここだ」
「あの、でも、寝相が悪いので……」
(寝るときからいきなり陛下のすぐ隣でなんて、寝られるわけがない。贅沢すぎる。ないない)
他に上手い言い訳が思いつかず、ルティシアは恐縮して歯切れ悪く言葉を濁した。
「構わん。お前は温かくて俺の抱き枕に調度いい。お前も俺を枕か何かだと思ってくれて良い」
(ま、まくら……。それなら大丈夫……)
おずおずと、ルティシアは四つん這いでアージェスに近づいた。
高鳴る鼓動を感じながら、腕を広げた彼の隣に身を横にすると、毛布が掛けられて包み込まれる。
抱き寄せられた温かい王の胸に、鼓動が最高潮に高鳴る。
贅沢過ぎて、自分などがここにいてもいいのか不安に襲われて萎縮する。
頬に手が添えられて、額に唇が寄せられる。
「おやすみ、ルル」
思わず視線を上げたルティシアは、薄闇に光る穏やかな双眸に魅入られてしまう。
アージェスが目を細めて笑みを深めると、顔が近づいてくる。
見つめ合ったまま、互いの唇が重なる。
胸が震えて、溢れた涙が目尻から零れていく。
刹那、かすかに開いていた唇を吸い上げられた。
(な、な、なにっ!)
驚きすぎて声にならない悲鳴を上げ、込み上げる猛烈な羞恥で、耐え切れずに背を向けた。
「ルティシア」
背を向けて体を丸めたルティシアの肩に、アージェスが案じるように手を置いた。
「あ、あの……」
羞恥で熱くなる顔を見られまいと、顔をシーツに押し付け、何か言おうとするけれど、頭の中が混乱して言葉にできない。
「怖がるな、ただのキスだ。お前ももう婦人なんだ、キスぐらいできるようにならねばな」
(そういうものなの?)
その手の常識をルティシアに教えてくれる者などいなかった。
ルティシアに触れる男が現れるとは、誰も思わなかっただろう。彼女自身ですら想像していなかったのだから。
そんな認識をアージェスは一蹴してルティシアに平然と触れる。
さも当然のように、ごく普通の婦人として接してくれる。
廊下に出るたびに聞こえてくる絶え間ない誹謗中傷を、微塵も思い出させないほど躊躇いがない。
顔を上げて目を合わせるともう最後、肩を抱き寄せられて、易々とアージェスの胸に戻されてしまう。
絡め取られるままに抱きしめられて唇を重ねられる。
離すと、彼はルティシアを毛布の中で抱きしめ、宥めるように頭を何度も優しく撫でた。
優しくされる度に、拒む言葉も気力も奪われていく。
いっこうに離す気配のない陛下の腕の中で、どうしていいのか分からないまま鼓動が高鳴り、時が過ぎていく。
どれぐらいも経たないうちに、すぐ近くから規則正しい寝息が聞こえてきた。
仰げば、アージェスが既に眠っていた。
無防備で気持ち良さそうな寝顔に、ルティシアの胸は苦しくなる。
(髪も目も、他の人と同じだったら良かったのに。そうすれば私は……、陛下)
「うっ、……ふっ」
「キスがそんなに嫌だったのか」
声を押し殺して泣いていたルティシアは、寝ていたはずのアージェスの声に、ビクッと震えて小さくなる。
そしてふるふると首を横に振った。
「起こしてしまい申し訳ありません」
「構わん、怒ってなどいないからそう怯えるな」
大きな手がルティシアの頭を撫でて、濡れた頬を拭う。
「キスではないなら……ああ、それ以上のことをして欲しかったのか」
アージェスがいやらしくにやりと笑う。
「ち、違います」
胸を押し返して離れようとすると、腕を掴まれ、抱きしめ直される。
「だったら、大人しく俺の抱き枕に徹していろ。あまり過敏に反応されると、お前を我慢できなくなる」
かぁーと、顔に熱が昇る。
「……すみません」
俯けた顔の下で蚊が鳴くような声で謝った。
アージェスはまたすぐに眠ってしまったが、彼の腕の中に閉じ込められたルティシアは、煩いほど高鳴る鼓動が鎮まらずなかなか寝付けず、身じろぎもできないままひたすら睡魔が訪れるのを待った。
その夜、ルティシアが夜の徘徊に出ることはなかった。