第16話 甘露と辛酸の狭間で 1
浮上した意識の中、ルティシアは温かい何かに包まれていた。それは王から借りている上質の毛布とは違う。なんともいえぬ気持ちの良さだ。
ずっと包まれていたいと思いながら瞼を押し上げると、毛布ではなく生成りのリンネルが見えた。
横向きになった身体を、緩く巻くように乗せられた腕の重みと、寄り添う存在に、先ほどから感じる視線。
ドキリと一際大きく鼓動が跳ねる。考えるよりも先にルティシアは離れた。目ざとく、互いの寝衣がちゃんと身に着けられていることを確認して安堵する。そして思い出したように慌てて頭を下げた。
「も、申し訳ありませんっ、陛下」
以前は頻繁に夜の徘徊に出ていたルティシアだが、近頃は長椅子で朝まで眠れる日も増えていた。ここ二日は長椅子で目覚めることができ、このまま治るのではないかと希望すら抱いていたのだが、どうやらまたやってしまったらしい。
その点、アージェスはルティシアに誤魔化すことなく、外から連れ帰ると決まって寝台に寝かせた。しかも、一度同衾したことをきっかけに、徘徊のたびに寝台を共にするようになっていた。仕方がないと黙っていれば、互いの距離は回を追うごとに近くづいていた。
気をつけようにも、なにぶん寝ている間のこと。意識のないルティシアには離れようがなかった。
外から連れ帰ってもらえているだけに、文句の言いようもなく、負い目で頭が下がるばかりだ。
「謝るなと言っただろう?」
腕を掴まれ、腰を浚われる。アージェスの胸に引寄せられて、ドキリとした。
「俺も一人で寝るより、お前がいてくれたほうが温まる」
すっかり聞きなれた柔らかな低音。
温かく逞しい腕。
これまで、誰かにこんなふうに抱きしめられたことがあっただろうか。
兄姉が父母に抱きしめられ、キスをもらっているのを見ることはあっても、ルティシアがそれらを受けたことはない。
ただの一度も。
母はルティシアに言った。
『どうして、あなたみたいな子が生まれてくるの?』
父も兄姉も、侍女も、王宮の人々も。
(皆が私を嫌う)
(陛下、どうしてこんな私に優しくしてくださるのですか?)
アージェスの優しい温もりが切なく、苦しいほどに胸が塞がれて声が出せなかった。
無骨な手がルティシアの頤を上げさせる。
視線を合わせられず、目を背けた。頬を撫でられて初めて、自分が泣いていたことに気づく。
不意に迫ってきた気配。
頬に柔らかなものが触れた。口づけられたのだと分かったとたん、鼓動が高鳴る。
すぐに離れていく彼を、ルティシアは目で追わずにはいられなかった。
(どうして?)
「好きだ」
ルティシアの口に出せない疑問に答えるように、アージェスが告げた。
(スキ?)
聞いたことのない台詞。自分には縁のない単語。
晴れた昼の空のような青い双眸が、転がる小石のような瑣末なルティシアを絡め取る。
逃げようと思えば逃げられた。
けれどルティシアは逃げなかった。
例えそれが気まぐれでも良かった。
ほんの少しでいい。
夢を見てみたかった。
お伽噺に出てくる素敵な王子様が、お姫様にするようなキスをもらいたかった。
落ちてくる陛下の唇。
ルティシアは涙を零しながらアージェスの口づけを震えそうになる唇で受けた。
初めてのキスは、合わせられた唇から、彼の優しさが流れてくるようで、甘く胸がいっぱいになった。
唇を離したアージェスは、ルティシアを強く抱きしめる。
「愛してる、ルティシア」
「ふっ……」
涙が溢れて、胸の奥底から湧き上がる歓喜に、嗚咽が漏れそうになる声を、ルティシアは唇を噛み締めて堪えた。
純粋に嬉しかった。だが、アージェスに応える言葉も、抱きしめ返す腕もルティシアは持ち合わせていない。
自分は決して王に愛されてはいけない、悪魔と呼ばれる者だから。
甘すぎる夢が心を侵す猛毒に思えて、臆病な兎でしかないルティシアには到底踏み込めない危険な領域だった。
(陛下は嘘を付いてらっしゃる。
私はお姫様なんかじゃない。
首輪をつけた陛下の奴隷)
(その気になってはいけない。
呪われた悪魔なのだから)
とめどない涙を流しながら、自分に何度も何度も言い聞かせた。