第10話 優しくしたくなる瞬間
夜、アージェスは女を求めて城を出る。
遊びのつもりだった。
だが違う。
不意に我に返ったとき、慰めと温もりを求めて女を抱いている自分に気づいた。
盛る欲情は急速に冷め、寝台での行為を中断して女から離れた。
王宮へ戻り、自室に入ると、真っ直ぐにルティシアの眠る長椅子に向かう。
しかし、毛布があるだけで肝心の姿がどこにもない。
めくった毛布の下に手を当てると、温もりが残っていた。
アージェスは椅子に腰掛、ルティシアが戻ってくるのを待った。
待つこと数時間。一睡も眠れぬまま朝を迎えることになる。
ルティシアはこれまで通り、付けた騎士に連れられて朝食の席へやってきた。
家臣の目もあり、アージェスは何も聞く気になれず、何事もなかったかのように振舞った。
夜を待ち、彼は自室でルティシアに向き合う。
部屋の中央にある長椅子の上で、少女が膝を抱えて俯いていた。
そこから離れた場所に、アージェスは椅子を置いて陣取った。
「おまえ、好きな男でもいるのか?」
「……」
顔を上げたルティシアは、質問の意味が分からないというような顔をした。
言葉が通じないもどかしさに、アージェスは苛立ちを覚えながらもそれを抑え、努めて平静に質問を変えた。
「昨夜はどこへ行っていた? 俺はずっとおまえを待っていたが、結局帰ってこなかった」
これではまるで妻に浮気された間抜けな夫だ。
我ながらなんて陳腐な台詞を吐いているのかと嫌気がさす。無論、己のことは棚上げだ。
朝帰りを繰り返していると思しき疑わしい彼の愛妾はというと、さも自分には全く関係ありません、とでも言いたげに視線を逸らした。
「食事の席と、就寝前はこの部屋におります。それ以外のことは自由をお認めくださっているのではありませんか?」
アージェスの眉がピクリと動く。
(世のご婦人方は俺に構ってもらいたくて、あの手この手と品を変えて取り入るのに必死だ。なのに、なんだこの可愛くない女はっ。この俺様がこんなにも構ってやろうとしているというのに。開き直った浮気妻のようなことを言いやがる)
「確かに、放し飼いにしてやる、とは言ったが、何をしても良いと言った覚えはない。おまえの行動は充分に疑う余地がある。俺の目を盗んで何をしている?」
「何も。ただ外に出て散歩をしているだけです」
疲れたように、ルティシアは吐息をついた。
普段の大雑把なアージェスであれば、人のそんな些細な仕草など気にも留めないのだが、こうもこけにされては苛立ちが募る。
自然に口調が厳しくなる。
「歩くだけなら昼間にしろ。部屋に閉じこもるのは体にもよくない。陽の光を浴びて来い」
ルティシアが口の端を引き上げた。
これまで多くの女と関係を持ってきたアージェスだ。痴話ゲンカにも慣れている。臨戦態勢に入りかけて、ふと思い出す。
そういう時は決まって、相手を上手く言いくるめて寝台になだれ込み、怒りを忘れさせるというのが、アージェス流のやり方だった。しかし、まだそこまでの関係に至っていないルティシアにはその手が使えない。
寝台に連れ込む以前の問題だ。
と、ここまで思考を巡らしてルティシアの異変に気づく。
真紅の瞳が、傷ついたような暗い色をしていた。
初めて見せたその笑顔は、彼女自身に対しての嘲りに満ちていた。
「『黒き悪魔が血を吸いに来る。
嵐を呼び、雷を振り下ろす。
雨は降らぬ。
干からびた大地を切り裂き、炎で焼き尽くす』
この国は私に滅ぼされるそうです。勇猛な国王陛下ならば、公衆面前で私を処刑台に上がらせてはいかがですか? あなた様の家臣はさぞ、安心して眠れることでしょう」
部屋に灯る燭台の明かりが、ルティシアの陰影を色濃く映し、それがいっそう彼女に暗い影を落としていた。
泣いている。
真紅の双眸は涙を溢れさせてはいないが、アージェスの目にはそう見えた。
指を握り込み、皮膚に爪が食い込むほど強く握りしめた。
胸に突き刺さる鈍い痛みが、なんという名の感情であるのかアージェスは知らない。
父親が国を裏切り、髪が黒く、瞳が赤いというだけで、一体ルティシアが何の罪を犯したというのか。
何もしてはいない。
極普通の日常を過ごしているだけではないか。
生きていること自体が罪だというのか。
アージェスは無性に、優しく抱き締めてやりたい衝動に駆られた。
けれども、ルティシアは望まないだろう。
存在自体を否定されて深く傷ついている彼女を、アージェスは慰める術をもっていなかった。
それどころか、悪魔と蔑まれたルティシアにとって、国を守るべき王であるアージェスは、自分に処罰を下す裁判官のようなものだ。
手元において庇護しているつもりになっていたのはアージェスだけで、その実、自分が知らないところでは、誹謗中傷という言葉の暴力を受けていたのだ。
家臣らのルティシアに対する陰口は当初から知っていたが、まさかそこまで苛烈を極めていたとは思いもしなかった。
部屋で見る彼女は、いつも物静かで落ち着いており、寡黙で自分のことを一切語ろうとしなかった。その様子からは、何も感じ取れず、陰口はルティシアなりに上手く受け流せているものと思い込んでいた。
だが、違っていた。
小さな胸に抱えきれないほどに受け止めていた。
生きることを諦めるほどに。
殺される覚悟はできていると言った真剣な眼差しを、鮮明に思い出す。
そんなことになっていたとは知らず、勝手に怒って彼女を殴ったことを、アージェスは後悔した。
近習のトルテはルティシアに部屋を与えることを勧めたが、やはり傍から離すべきではない。
強い口調でアージェスは告げる。
「その首輪がある限り、おまえは俺のものだ。俺の元から逃げることも、自ら命を絶つことも断じて許さない。俺のいるこの場所が、誰が何を言おうとも、お前の居場所だ」
まじまじとアージェスを見つめる紅い瞳が揺れた。
唇を噛むと、たぐり寄せた毛布に、顔を隠すように埋める。
「でも私は、……陛下のお役には立てません」
言い募るくぐもった声が、アージェスの胸をくすぐる。
酷く優しい気持ちにさせられる。
「構わない。一緒にいればいつかは気持ちが変わる。おまえが許せるようになるまで俺は、お前に触れないと約束する。だから安心してここにいれば良い」
ゆっくりと顔を上げたルティシアの頬は涙で濡れていた。何か言いたげに口を開いたが、何も言えずに閉じてしまう。
新たに涙が盛り上がって頬に流れていく。
それが、物言わぬルティシアの答えに思え、アージェスはそれ以上何も言わなかった。
近づきたくなるのをぐっと堪え、しばらく見つめ合うと、アージェスは立ち上がった。
「ゆっくり休め」と、挨拶一つで彼女から離れた。