お姫様ではないもの
少女は生まれたばかりの妹の部屋に忍び込んだ。
家族から会うことを固く禁じられていたのだが、どうしても見てみたかった。
ゆりかごの中には、気持ち良さそうに眠る可愛らしい赤子がいる。
(なんて愛らしいのかしら。まるで天使のよう)
初めて見る赤子に感嘆の吐息がほうっ、と漏れる。
何もかもが小さく、柔らかそうな頬に触れてみたくて思わず手が伸びる。
「触らないでっ!」
戸口に現れた美しい女が鋭く制し、少女は驚いてびくりと震えた。
女は駆け寄って赤子を急いで抱き上げる。
まるで賊でも見るような目で睨むと、視線を抱いている赤子に向ける。
先刻まで警戒していた女の顔が見る間に青褪めていく。
「い、息をしてない。マドレーヌっ、マドレーヌっ、誰か、誰か来てッ!」
赤子を抱いたまま女は狼狽え、屋敷中に響くような甲高い声で人を呼んだ。
(そ、そんなっ!)
つい先ほどまでは、すやすやと気持ちよさそうにすやすやと眠っていたのだ。
それが、この短時間で息を止めるなど信じがたいことだ。
無論、少女は赤子に何もしていない。
頭の先からつま先までサーと血が流れていくような感覚がして、少女は何も出来ずに青褪めた。
思い出したかのように女が振り返る。
「この子に何をしたの?」
「わ、わた、わたしは……」
血の気の失せた怒りの形相に、少女は震え上がって上手く話すことも出来ない。
「お前が殺したのでしょう?」
何もしていない。触れることさえしていない。
少女はただ愛くるしい姿を見ていただけだ。
「ち、ちが……」
萎縮で狭まった喉からは上手く声が発せられない。
「悪魔……出て行け、出て行けッ!」
女が狂ったように叫び、少女はろくに釈明もできないまま濡れ衣を着せられ、背後にある庭へと続く扉から追い出された。
外は暗く、秋の冷たい夜風が少女の身も心も凍えさせる。
「母上様、私は……私は……」
閉ざされた扉に呼びかけようとするけれど、喉が詰まり声が出せない。
例え呼びかけ、その声が届いたとして、名前さえ呼んでくれない母を前に、何が言えるだろう。
何かを言おうとして、話を聞いてもらったことがあっただろうか。
いつも顔を見るだけで責められ、罵られて話しさえさせてもらえなかった。
溢れた涙で木戸の木目が滲み、零れそうになる嗚咽を、鉛を呑むような苦しさで呑み込んだ。
寝台に横たわり、少女は思う。
(私はなぜ、ここにいるの?)
物語のお姫様は、どんな苦難に遭っても、王子様が必ず救出に来てくれる。主人公を苦しめていた悪は、退治されて悲惨な最期を遂げ、最後は王子様と幸せになれる。
(だけど私は……お姫様じゃない。いくら待っても、王子様は来ない。だって私は……)
昼間であれば、本を読んだり、刺繍をしたり、何かしらすることがあるけれど、夜になると何もすることがなくて、眠れずに栓なきことを延々と考え、涙に暮れる。
そんな日々が続いたある夜、気づけば少女は野外の草上にいた。
すっかり体は冷え、緩慢な動作で起き上がろうとしたとき、草や木ではない何か温かいものに触れた。
ぬるりとした感触に、月光に照らされた手を見れば真っ赤に染まっているではないか。
周囲を木々に囲まれた林中、隣には男がうつ伏せになって背中から大量の血を流していた。