逢いたい
会いたい。会えない。会いたい。会いたい。会いたい。のに。会えない。
頭の中で復唱すると、何てあたしは孤独なのだろうと思い、自分を憐れんだ。
「数学終わったあ」
マユちゃんはすっきりしたように笑ってシャープペンシルを机の上に放った。 数学の宿題は本当に膨大だ。百ページ近くある。夏休みはもう後五日しか残っていない。のに数学の宿題は後六十ページ残っている。物理的に、無理、だよね。大体あたしの手は作業を中断して、脳内で渦巻く煩悶とした感情を処理する事に精を出しているんだから、そんな事に気を遣っている場合じゃないでしょ。
「いっちーあと何残ってる?」
一段落終えたマユちゃんは自販機で買ったレモンティーを飲みながら、爽快な様子で尋ねた。
「読書感想文、化学、数学、単語暗記」
「あー、そりゃ絶望的」
マユちゃんは他人事と思って次の課題にとりかかっている。あたしは気を取り直して六十ページの問題にとりかかろうと問題を読むが、嫌いな二次関数の応用問題の内容が理解できるはずもなく、また脳内にトリップする。
あたしが学校に自習に来ている理由は、勉強したいからじゃない。会いたいのだ。彼に会いたいのだ。是非、お会いしたいのだ。不可能でもセクハラでもストーカーでも、会って抱きしめたいのだ。身近に感じたい。のに……。
「靴はあるのにね」
びくっ。とした。マユちゃんはにやりと笑った。全部お見通しだよと言わんばかりに、にやりと。
彼はどこにいるのかわからない。
部活をやっているにしても運動場はもぬけの殻だし、図書室は三年生が独占しているし。第一、校舎が広すぎるからどこにいるのか見当もつかない。ああ、会いたい。あたしは彼の友達でもなければ、ましてや恋人でもない。なのにここまで会いたくなるとは。彼はウイルスなのでは。あたしの体内に蔓延している。のでは?
「探しに行こうか」
マユちゃんは奇妙な笑みを浮かべながらあたしに尋ねた。探しに行っても、殆ど確実に会えないし、会ってもどうしたらいいかわからない。ああジレンマだ。にっちもさっちも行かない我が儘なジレンマがあたしに宿っている。
*
自習室を飛び出して、グラウンド、図書室、演習室を見回ったものの、それらしい人は見当たらなくて、安心したようながっかりしたような気分になった。教員用のエレベーターにこっそり乗って一階に向かい、彼の靴箱をチェックしてみれば、丁寧に扱われているのか、比較的綺麗なままの革靴がきっちりとそろえられていた。彼はまだどこかに居る。この広い校舎のどこかに。だけどどこに居るのかわからなくて、悲しくなる。同じ敷地内にいるのに。何故、会えない?
*
下校の時間が来たことを告げる放送が鳴ると、荷物を纏めざるを得なくなる。手付かずの数学の問題集を鞄に突っ込んで息を吐いた。結局会えなかったな。と思うと、虚しさが加速した。校舎の敷地の広さを恨んだ。入学前は、校舎が広い事に憧れて居たけれど、今思えば移動が面倒なだけで何もメリットが無い。
教室を施錠し、夕日が射し込む静かな廊下をマユちゃんと二人で歩いた。宿題終わらないからさ、彼奴の事考えるの止めたら? あと五日ぐらいさ。とマユちゃんは言う。それが正しいのはわかっている。ただ、正しい事を出来るのかと問えばそうじゃない。あたしは彼の事を考えずには居られない。会いたい。会いたい。と叫びたい。ぐらい。
さっきはエレベーターで階を下ったけど、今エレベーターを覗いてみると、生徒指導の先生が居たから大人しく階段で下駄箱へ向かった。革靴と砂のにおいが鼻をつく。あたしは自分の靴を取り出して、ふと彼の靴を確認する。靴はある。彼はまだここに居る。会いたい。
「もう下校の時間なのにね」
だからもう少しで彼は校舎を後にするんだろう。帰り道、彼に会えるかもしれない。バスが来るまで、あと二十分。二十分以内に、彼は校舎を立ち去るかもしれない。そうだとすれば、会えるよ彼に。心臓が高鳴った。会って何を話そうかなんて、会った後に考えればいい。だから、会うだけ会おう。
バス停に到着すると、マユちゃんと一緒に自転車で下校していく人達を観察した。うちの学校の近くにあるバス停は、一時間にバスが一本しか来ないため、殆どの人が自転車通学している。あたしは駅までの距離があまりにも遠いため、時間を浪費してもバス通学しているのだけれども。
通りゆく人は、中には知り合いは居るものの、全部彼ではない。会いたいのに会えない事にひどくイライラして、同時にとても寂しくなった。ああ、あたしを安心させて。会う事によって、イライラも寂しさも緩和させてよ。
しかし、彼が見当たらないままバスが到着する。
乗り込むと、エアコンの涼しい風があった。一時間に一本という便の悪さを知ってか、バスの利用者は妙に少なく、いつでも席に座る事が出来る。便が悪くても、座れるというのはいい事だ。だけど今日は、座席に腰を下ろすと、世界から隔絶されたような気がして寂しかった。彼が通るのではないかと、窓の外をじっと見続けた。だけど通り行くのは知らない女が二、三人。
「駅で待ち伏せしてみたら?」
「駅?」
マユちゃんの発案に首を傾げた。
「彼奴も同じ駅だから、きっと来るよ」
マユちゃんは、あたしも一緒に待っててあげる、と笑った。ああ、可愛い。優しい。マユちゃんはあたしの幸せを願ってくれている。あたしが大きく頷くとマユちゃんは笑った。
*
電車が通り過ぎていく。駅員さんが、電車に乗らずにホームに立ち尽くすあたし達を不審そうに見つめていた。来ない。まだ来ない。来ない。会えない。会いたい。ああ。マユちゃんと話をしながらも私はそわそわして落ち着かなかった。彼と同じくらいの背丈の人が通る度確認し、彼と同じ制服を着る人が通る度確認し、彼と同じような声が聞こえる度確認した。けど、どれもこれも彼じゃない。今どこに居るの? また一番線から電車が発車する。いつ来るの? ねえ。見ると七時を過ぎている。マユちゃんをいつまでも巻き込んでしまってはまずい。
「来ないのかな」
「バスに乗っている間に追い越されちゃったかも」
「そうだね」
願望を抑圧した。あたしはもう自分を制御出来る年だ。マユちゃんにお礼を言って、今度ハーゲンダッツのモカクリスピーを奢る約束をしてバイバイした。丁度マユちゃんの乗る電車が来て、マユちゃんは電車の中に消えて行った。
あたしも、帰らなくては。
課題は沢山残っている。黙殺しているけれども、コンプリートしなくてはならない。 次の電車に乗らなくちゃ。と思う。一番線に電車が入ります白線の内側にお下がり下さい。ほら、アナウンスは現実を見せてくれる。家に帰りなさい。とあたしに忠告するようだった。闇に浮かぶ、車内の証明。四角い窓が白く発光。ドアが開き、あたしを誘う。ああ。ああ。ああ……。ドアが閉まる時にあたしは闇に目を奪われた。
彼だ。
待ちわびた彼が、ホームに居る。
気づいてあたしはここに。
ここに居るのに……。
電車が揺れた。彼が見えなくなった。彼はあたしの姿がここにある事を、ちっとも知る事なく、今あのホームで電車を待っている。