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第2話「明日香としての第一歩」

「あ、すか……」

 お母さん――と呼ばれた女性が去った後、私はもう一度鏡に向かってその名前を呟いてみた。


 つむぎだった頃の私は、病院のベッドの上で、ただカレンダーがめくられるのを眺めるだけの存在だった。

けれど今の私は、自分の足で立ち、自分の肺で、桜の香りが混じった春の空気を吸い込んでいる。


「……やるしかない、のかな」

 混乱は消えない。けれど、階下から漂ってくる味噌汁の匂いと、時折聞こえる包丁の音が、ここが「現実」であることを容赦なく突きつけてくる。


 私はクローゼットにかかっていた、真新しい紺色のブレザーに袖を通した。

 生地が肌に触れる感覚すら新鮮で、くすぐったい。スカートのプリーツを整え、机の上にあった学生証を手に取る。


『私立 聖凪(せいさなぎ)高等学校 1年A組 如月 明日香』

 写真の中の少女は、少しだけ不安そうに、でも真っ直ぐ前を見つめていた。

 2025年。私が知っている世界より、少しだけ先の未来。


 でも、病室の外に出られなかった私にとっては、10年前だろうが10年後だろうが、ここは「外の世界」という未知の惑星と同じだ。

「よし」

 軽く頬を叩いて、部屋を出る。


 階段を一段降りるごとに、足の裏に伝わる木の感触。手すりを握る指の力。


 「痛くない」って、こんなに自由なんだ。

 リビングに入ると、さっきの女性――明日香のお母さんが忙しそうに朝食を並べていた。


「ほら、座った座った!初日から遅刻したら、明日香のズボラが先生にバレちゃうでしょ」

「あ……うん。おはよう、お母さん」

 恐る恐る口にすると、お母さんは一瞬動きを止めて、不思議そうに私を見た。


「なによ、改まって。いつもは『おはよー、眠いー』しか言わないくせに。……まあいいわ、早く食べなさい」


 差し出されたのは、温かいご飯と、湯気が立つお味噌汁。


 一口運ぶと、出汁の味が体に染み渡る。

 あぁ、生きてる。味がする。飲み込んでも、苦しくない。


 ――気づくと、お味噌汁の中に、ぽたぽたと雫が落ちた。


「えっ、ちょっと!明日香、どうしたの!?そんなに私の味噌汁、まずかった?」


「ちがっ、違うの。……美味しい。すごく、美味しいから」

 お母さんは面食らった顔をしていたけれど、すぐに困ったように笑って、「変な子ね」と私の頭を雑に撫でた。


 その手のひらの熱が、何よりも嬉しかった。

 食事を終え、私は玄関でローファーを履く。

 ドアを開けると、目の前にはどこまでも続く青い空と、満開の桜並木。


「行ってきます!」

 名前も知らない誰かの人生。

 でも、神様がくれた第2のチャンス。

 

 私は、紬として叶えられなかった「普通」を掴み取るために、春の街へと走り出した。

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