ー拾壱ー
ふたりと一匹の足音が忙しなく鳴る。美しい枯山水の面影は、すでにない。あるのは塵と血痕。乾いた粘液。どのにおいにつられてきたのか、ハエも何匹か飛んでいる。
「うおおっ!」
須賀がうなって、横に飛んだ。腹から砂利に滑りこむ。その脇を、水膨れの悪魔が通過する。廊下にいたときよりも、明らかに足が速くなっている。あと一歩、飛ぶのが遅れたら、縦開きの大口に足をもぎ取られていた。
「あいつ、あんなに速く走れたのか! ——いや、ちがう。あの粘っこい汁のせいで、足裏に砂利がついたんだ。それがスパイク靴みたいに、滑り止めの役割をしちまっている……!」
「逃げろ!」小島が声を投げる。「そっちに行った!」
「なんでまた、おれなんだよおおぉ」
走る須賀の背を、白い巨体が追う。捕食するための大口を縦に開き。躰じゅうから生えたいくつもの四肢を、アクセサリーみたいに揺らしている。
「隊長、おれをねらえ!」
小島の声が届いたのか、水膨れの悪魔は急停止し、身体の向きを変えた。
「ひっ、ほんとにこっち見た!」
「すまん、すまん。食べるほう、まちがえた」
悪魔が、林田の声を発する。
数秒のすきを逃さず、須賀がうしろから短刀で刺した。しかし蚊に刺された程度の反応だ。悪魔は意に介さずに、小島のほうへと駆けだした。
「だめだ、全然ダメージにならない、もっと長い刀で深くまで斬らないといけねえのか!?」
「ああっもうっ、気味がわるい!」追われる小島が叫んだ。
「だめだろォ、こじま。おれのそばにいないと、隊長のソバにいろおお」
悪魔が足を止めた。口から水を噴射する予備動作をはじめる。その動きに須賀が気づいた。
「庭石の裏に逃げろ! 水鉄砲がくるぞ!」
言われるまま小島は庭石に身を隠した。しゃがんで背中を押しつけて、やっと頭が隠れるほどの大きさの石だ。びしゃあ、と粘度の高い水が、石の表面に押しつけられる。
「ああ、まじでなんなんだこれ!」
直線で噴射された水のほとんどが石にさえぎられたが——しかし、飛び散った液体が小島の髪の毛にもかかった。その違和感は、筆舌につくしがたい。
「どうすんだよ、こんなの、刀もなしに勝てない!」
石に隠れる小島は嘆いた。すると、うしろから断末魔が聞こえた。まちがいなく林田の声だった。水の噴射も止んだ。小島は、おそるおそる立ち上がる。石越しに見た水膨れの悪魔は全身を硬直させている。須賀のすがたは見えない。
「どうした、なにが起きた? す、須賀さん!」
縦開きの大口が開いて、もう一度、強い断末魔が鳴った。小島は両手で耳を塞ぐ。だが、視線は悪魔から離さなかった。大口の中央にある林田の顔に、一本の刀が貫通している——。
悪魔は力を失い、すこしずつ萎んでいくと——そのうしろに須賀がいたことが、ようやくわかった。
「あれはおれの刀だ……。やったのか、須賀さん!」
水脹れの悪魔が細い腕でつかんでいた、小島の刀。それを須賀は奪いとり、相手の背中深くまで思いきり突き刺した。
こいつの表面をどれだけ斬っても意味がない。ならば、刀で内臓の深くを突き刺せば、決着がつくのではないか。その仮説を現実にした。
「須賀さあん!」
小島が走った。水膨れの悪魔は、ぺちゃんこに潰れて、塵に変わりはじめている。
「あんた、悪魔祓いでもないのに妖刀なんて持ったら……! 身体がぶっ壊れるぞ!」
小島の心配を裏切ることなく、須賀の体調はひどいものだ。這いつくばるしかない。銀次の短刀ですら、あの有様だった。より長さのある太刀を持てば、どれほどの拒否反応が起きるか。
妖刀を手に持って、悪魔に突き刺す——その数秒でさえ短刀のときとは比べ物にならない体調不良を経験したはずだが、須賀は耐えた。
「悪魔祓いの打刀なんて、一般人が持てる代物じゃないぜ」
背中をさすってくれる小島に返事をしたいが、できない。代わりに須賀は、左手の親指を立ててグッドサインをつくった。
一方の小島は、自分の表情をどこに置いたらいいのか、わからなかった。仲間の死をかなしむ気持ち。須賀の勇心を讃えたい気持ち。かなしくもあり、晴れていくような複雑な感情。胸にこみあげる、あらゆる想いを奥歯で噛みくだき、泣きそうな顔ではあるが無理に笑ってみせた。それは、目下でうずくまる戦友のための笑顔だ。
「ほんもんだよ。あんたは、本物の漢だ」




