ー玖ー
「なんで、雪が降ってるんだ?」
須賀は、寺院の縁側を走りながら、屋根越しに空を見上げた。
「こいつあ、東子さんがつくった状況なのか……?」
中庭のところまで来たが、剣戟の音はまだ遠い。さきほどまでそこにあった、隊員たちの遺体が見当たらない。
山となって積もった塵。それとなにか、ねばねばとした液体の跡が、乱れきった枯山水に塗られている。巨大なナメクジでもいたのか——?
「中庭の遺体が全部、消えちまった……。だれかが運んだのか? 生きてる隊員は、みんな屋内で闘っているのか?」
さらに廊下を走り、本堂の近くまで来た。悪魔が一匹。結界に爪をつき立てている。
「おい、こっちだばかやろう!」
「ア?」
悪魔は結界をひっかくのをやめて、須賀を見た。長い舌で紫の顔をぐるりと舐めてから、おそいかかる。袈裟に振られた爪——その腕をとり、背負い投げを決める。
倒れこんだ相手の手首を、思いきりひねる。アアッ、と痛々しい声。関節が千切れたか。膝で側頭部をおさえつけ、短刀を額に突き刺す。暴れる犯人を抑えた経験が活かされた。
悪魔を倒した須賀は、本堂に飛びこんだ。
結界の半径が、さきほどよりも小さくなっている。
「かすみさん!」
祭壇の火を前に正座をし、滝のような汗を流しながら、かすみは経を唱えつづけていた。その背中に須賀は声を投げた。
「隊員のみんなは、どこに?」
「須賀さん……」かすみは、苦しそうに細い声を出した。「雪が降りました。それのせいか、悪魔たちはこぞって屋内に逃げこみました。劣勢だった討魔分隊も、それを追って寺院のなかに……」
開かれた本堂の大扉から、外の景色が見える。夏であることを忘れてしまいそうな雪景色だ。
「きっとこれは、東子さんの能力だと思います。悪魔たちは、身体に雪が当たることをきらって、屋内に逃げてきた。理由は詳しくわかりませんが、そういうことかと……」
「わかりました。すぐにもどってきます。新しい飲み物を持って、かならず」
「ええ……」
かすみは応えたが、くらりとめまいを感じた。
すこし、肩がかたむいた。
呼吸を深くして体勢を持ちなおす。
「たのみます……」
かすみの言葉に押されるように、須賀は駆けた。ある一室に近づくと、剣戟の音が聞こえた。部屋のなかで、だれかが闘っている。
「おい! 加勢するぞ!」
その隊員は和室の壁を背に、刀を中段に構えている。息が切れそうだ。もてあそぶように一匹ずつ交代で攻めてくる三匹の悪魔——彼が殺されるのは時間の問題だった。現に悪魔たちは、けらけらと笑っている。この状況を楽しんでいる。
「あんた!」隊員は刀で爪を弾き、須賀を一瞥した。「一般人はさがってろ!」
「おれぁ、もう一般人じゃねえ!」
二匹の悪魔を引き受けるつもりで、須賀は突進した。振られた腕を柔術で受けとめ、関節をかためる。相手の動きを封じる。短刀で急所をつく。
逮捕術と警棒術をあわせた攻防一体の戦術。悪魔祓いのような派手な闘い方ではないが、玄人の刑事である須賀にしかできない、堅実な闘いだ。
「その短刀は……っ!」隊員が一匹の腹を斬った。塵が舞う。「あんた、あつかえるのか!」
「戦力と思ってくれ!」
須賀は周囲を見渡した。
悪魔が一匹、いない。
「どこにいった!」
「上だ!」隊員が叫ぶ。
悪魔は天井に爪を食いこませ、張りついていた。まるで忍者みたいだ。天井の木板から爪を抜いて落下し、真下の相手をおそう。大きく転がり、須賀は爪を避けた。
黒い爪が、畳の深くまで刺さった。悪魔は身動きがとれない。その一秒を隊員が見逃さない。駆けて、低めに刀を振る。塵が舞う。
「すまねえ」尻餅をついていた須賀は、立ち上がった。「この室内で、上を注意しなきゃならねえとは……」
「あんたが来てくれなかったら、防戦一方だった。死ぬのは時間の問題だったよ。助かった。おれは小島。あんたは?」
顔つきから察するに、小島は二十代後半だと思われる。短めの髪は濃いブラウンで、落ちつきを感じる。
「須賀だ」
応えて、手に持っている短刀を見つめた。その表情は曇っている。天井の悪魔に気づけなかった自分の不甲斐なさを、内心で責めている。
「そう暗い顔をするな」小島が優しく声をかけた。「命があってよかったじゃないか」
「あんたが、天井に悪魔がいると教えてくれたから。助かったんだ。短刀が使えるようになって……。調子に乗っていたかもしれねえ」
すると、遠くから女の叫び声が聞こえた。
須賀と小島は目を合わせて、うなずきあう。
部屋を出て、縁側を走ったふたりは居間に来た。秋と須賀が、よく会話をしている場所だ。このなかから、女性の喚き声が聞こえている。かすみのものではない。この声に聞き覚えがあるのは、小島だった。
「あいつ、まだ生きてたのか!? さっき死んだと思ったが……」
「隊員のことか?」
「ああ——早く助けよう!」
小島は、すぐにふすまを開けた。しかし、いるはずの女性のすがたは見えない。いや——正確には、その躰の一部だけが見えていた。
そいつのシルエットは、食べすぎで躰のラインを失った巨漢そのものだった。膨れ上がった水風船のような躰から、何本もの四肢が乱雑に生えている。全身の幅は、横だけでも約二メートルある。縦は、それよりもわずかに長い。
その生き物は大きさのちがうタイヤを重ねたような、太い足で立っていた。立ったばかりの赤子のような足踏みをして、こちらを振りむいたとき。たぷん、たぷん、と腹から音が鳴った。衣服は着ておらず、髪もない。肌の色は、不気味な白さで統一されている。
「おい、冗談じゃない」
「なんだよ、あれ」小島の顔が青ざめてゆく。「隊員、みんなの顔だ……」
ふたりは思わず、目をそらしたくなった。正面を向いた生き物の躰には、いくつもの人間の顔が張りついていた。
「きゃ、おそわれる! 助けて、助けて! タス……、けて……、タハハハ——」
か弱い女性の声は、次第に不協和音に変化した。いくつもある顔のうち、どれが発声しているか、検討もつかない。火傷でできた水膨れの皮膚みたいに、どの顔も白く腫れている。ストッキングをふざけて被った顔みたいだ、と須賀は思ったが、とても笑えない。
この生き物は人の声を真似して、まだ生きている者をおびきよせた。須賀と小島は、まんまと騙された。
「中庭で、すでに死んでいた隊員たちの顔だ……」小島は脱力して、床に両膝をついた。「みんなの遺体を、こいつが食ったってのか……」
「おい!」須賀がその肩を持ち上げる。「しっかりしろ、立たねえとやられるぞ!」
ねちねち、と気持ちの悪い音がした。生き物は腹を縦に裂いて、開いてみせた。真っ赤な肉が見えたが、内臓はない。縦に裂けた大口に、粘着質の糸が横に引いてのびる。口の中には、鮫の歯のようなものが敷き詰められていた。あれに食われたら——この世にはもどれまい。
開いた口の中央。ちょうど、喉とおぼしき場所。
そこに真っ赤な肉塊と化した顔がひとつあった。
その顔を見た小島の目は、強く見開き、まばたきを忘れた。全身が震える。その震えは須賀の腕にもがたがたと伝わる。
「皮が、全部むけた——隊長の顔が、でかい口のまんなかに……。まさか、こいつ、林田なのか」




