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刀闘記  作者: 燈海 空
天童風龍 篇
81/96

ー拾壱ー


 吏隠は動けない。唇が青くなり、指だけが震える。押しよせる出来事に脳がついていかず、精神が錯乱さくらんしている。西威は、それを察した。


「ああ、ごめんね。もっとくわしく話そう。きみにとっては、いい話だと思う」


 吏隠の背後に、悪魔化した母がせまる。うめきながら、よだれをきちらし、壁をひっ掻きながら廊下をよろよろと歩いてくる。まだ新しい躰に慣れていない。


「まずは、あっちをなんとかしなきゃ、ね」西威は、吏隠の肩にそっと触れてから玄関を上がった。廊下を進む。「ちょっと、お母さんとはなしてくるよ」


 吏隠の視線は、西威が腰に携行けいこうしている二本の刀を追ってしまう。


「こんばんは、三代みしろといいます」


 相手は悪魔だが、西威はかまわずあいさつした。


「おまえモ、コソダテのジャマスル……、あのネコみたいニ」

「あらら、こりゃ重症だね。なんの欲に悪霊がとりいたんだろう」


 西威の赤眼せきがんが、道枝の心臓付近を凝視ぎょうしした。魂の情報を読みとるような、そんな雰囲気——。


「息子の人権を無視した支配欲。そこから起因きいんするかぎりない金欲。社会的地位にすがるための、過剰な承認欲求——これだけの欲があれば、れいにとってはオードブルみたいなものだ、ね」


 西威は、乱れる道枝に近づく。右手の甲で紫の頬をぶった。道枝は壁に打ちつけられるも、異常に強い体幹たいかんを使って、即座に体勢を整える。そして、自分を殴った相手に爪を突きたてようとする。


 袈裟けさに振られた道枝の腕を、西威はつかんだ。手から冷気がつたわり、道枝の体温はみるみる奪われてゆく。口角がれさがり、そこからしたた唾液だえきは凍り、ちいさなつららができた。濃い化粧のせいか、唇は紅色のまま。


 あでやかさが残るショートボブの黒髪も、人工的に長いまつ毛も凍ってしまった。壁に背をあずけるようにして、道枝は座りこんでしまう。


「よし、大人しくなった。悪魔になったばかりだけど、もとから悪魔みたいな人だったんだろう。霊の侵食が早いね……。これでは、ぼくの力でも人間にもどせそうにないな」


 西威は一度、顔をくもらせたが、すぐに表情を切り替えた。自然な笑みをつくって、吏隠のもとへ戻る。


「きみ、名前は?」しゃがんで視線を合わせる。

「り、吏隠りおん……」

「ぼくがこわいかい?」


 西威が優しく問いかける。吏隠は肯定こうていの方向にも、否定の方向にも首を動かさない。


「わからない……」

「これだけの出来事がかさなったんだ。理解しろというには無理があるよ」西威は、吏隠の頭を優しくなでた。「ぼくはこわい人ではない。おそったりさらったり、そのたぐいのことをするつもりはない。信じて——もらえるかな?」


 西威の包みこむような口調。

 吏隠は首をぎこちなく、縦に動かした。


「きみはいま、なにに悩んでいる?」

「悩み……」吏隠はうつむく。「悩みなんて、考えたことがなかった。毎日、母さんの言うとおりに過ごすことばかり考えていた。テスラに会うまで、それ以外のことはなにも……」


 吏隠は、視線を自分の胸に落とし、抱っこをしているテスラを見つめる。


「悩み……。そうだ、ずっと悩んでいた。テスラと出会ってから、ずっと悩んでいたことがある」

「どんな悩み?」

「この子と一緒にいたい。死ぬまで、死んでからの天国でも。ずっと一緒に過ごしたい。テスラが母さんに見つかるのが、こわかった。離ればなれになることが、わかっていたから」


 西威は立ち上がった。吏隠の視線はおのずと上を見上げる。背が高いお兄ちゃんだ、と思った。語るうちに気をゆるしている自分にも、気づいた。


「叶えられるよ。ほんのすこし、人とちがう生き方をすればいい」

「どうやって?」

「強くなればいいんだ。だれにも負けないように。だれにも邪魔されないように、ね。きみたちは歳をとらない、病気にもならない。アニメのヒーローみたいに、わるいやつを倒せる力を手にいれる」


 西威は刀のつかに、そっと手を触れた。

 吏隠は心配半分、希望半分の表情をみせる。


「ほんとうに?」

「うそじゃないさ。ぼくが氷の魔法を使えるように、きみも魔法を手にすることができる」

「母さんが氷漬けになったのは、お兄さんの魔法のせい?」

「そうだよ。もうひとつ、別の魔法を見せてあげよう」


 西威は手のひらを上にして、吏隠の前に差し出す。真っ白なその手にはヘビが乗っていた。透明に近い色をしていて、視認しにんがむずかしい。


 しかし、段々と色がつきはじめ、最後には、赤と黒のチェック柄のような模様のヘビが現れた。二股の舌がちょろちょろと顔をだす。テスラは、ちいさなうなり声をあげた。


「猫ちゃんはヘビがきらいみたいだね」


 西威は眉を困らせながら、微笑む。


「これ、ヤマカガシ?」

「よく知っているね。そうだよ。神様に近いヘビとして有名だね」

「図鑑で見たことがある。本物は初めて見た……。お母さんがきびしくて、動物園とか、行ったことがないから……」


 吏隠は、テスラの頭を親指でなでた。ペットと呼べる生き物に出会えたのも、この子猫が初めてだった。


「このヘビ、さっきまで透明だったのに。どうして色がついたの?」

「そうだね……、色を隠していたんだよ」

「どうして?」

「うーん、ぼくの好みかな。このヘビは、一緒に闘ってくれる相棒なんだよ」

「ヘビが? どうやって闘うの?」

「噛みついたり、巻きついたり。そうすると、ヘビに触れた相手の時間が止まってしまう。表情くらいしか動かせなくなる。金縛りみたいに」

「時間をあやつる魔法?」

「そうだよ」西威がにっこりと笑う。「お兄ちゃんは魔法のヘビを、一度に何匹も使役しえきすることができる。彼らを透明にして、なるべく見えないようにしている。相手が困るほどに、こちらは有利になるから、ね」


 吏隠はうつむいて、テスラと顔を合わせた。心なしか、大切な相棒の表情も晴れているように見えた。弱々しい、いまにも倒れそうな子猫の顔だったが、いまはちがう。屈強くっきょうな獅子の面影を感じる。


「お兄さんって、もしかして卑怯ひきょう?」吏隠は笑った。

「あらら、そう言われると、ぐうの音も返せないな。でも、白魔になるということは、卑怯もいとわない、ということかな」


 吏隠は真顔になった。決意に満ちた眼で、西威を見つめる。その眼は一瞬だけ、赤くひかったような気がした。すくなくとも、西威にはそう見えた。


「卑怯って、いいね。なんだかワクワクする。もう、いい子はうんざりだ」


・…………………………・


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