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刀闘記  作者: 燈海 空
天童風龍 篇
80/96

ー拾ー


「ばかやろう! おまえのせいで、警察に目をつけられた!」


 道枝みちえは吏隠を怒鳴りつけた。自宅に入り、玄関のドアが閉まったとたんに豹変これだ。引いていた吏隠の手を前に投げて、玄関に倒れさせる。


「落とし前をつけろ! 大人になったら死ぬほど働いて金を落としやがれ! 勉強以外のことはなにもするな!」

「母さん……、あの路地裏で猫は見なかった?」


 高級ヒール靴を下駄箱げたばこにしまう道枝の背に、吏隠は、おそるおそる話しかけた。手をついて起きあがろうとしたが、身体じゅうが痛い。うつ伏せに近い姿勢で、顔だけを母の方に向ける。


「見たわよ」

「どこかに行った?」

「うちにいるわよ」


 道枝の言葉に、吏隠の表情が晴れてゆく。


「飼ってもいいの?」吏隠は立ち上がり、食い気味にせまった。腰に痛みが走ったが、まったく気にならない。「猫が——テスラがいるなら、なんだって頑張るよ! 勉強も、習い事だって全部満点をとるよ!」


 嬉々と話す息子をよそに、道枝の表情は変わらない。感情が凍結したみたいに、無表情のままだ。


「名前なんか、つけたのね。あのゴミに」

「ゴミ? なんで……、テスラはゴミなんかじゃない」吏隠の表情は、すぐにけわしくなった。「どうしてそんなこと言うんだよ、テスラはゴミじゃない! テスラのことをゴミあつかいする人はだれだって許さない!」


 激しい剣幕けんまくをぶつける吏隠の頬に、道枝の平手がまた飛んだ。


「いいよ、叩けばいい、息子とも思ってないくせに!」


 言葉をさえぎるようにして、さらに頬をうつ。


「母さんなんか大っきらいだ」

「わたしもあなたがきらい」

「知ってるよそんなの!」

「思いどおりに動かない、あなたがきらい」

「ロボットみたいにいうなよ、ぼくは人間だ!」

「言うことを、聞きなさい」

「もういやだ!」

「ガキが、黙ってわたしの言うことだけを聞いていろ!」

「いやだ、こんな家、出ていく!」


 道枝は吏隠の胸ぐらを掴もうとした、いつもみたいに。しかし今度は無理だった。ひどい形相ぎょうそうで近づいてきた彼女を、吏隠の両手が強く押した。道枝はお腹を抱え、その場にうずくまってしまう。


 さらに背負っていたリュックを投げつけた。教材が入った、重たいそれは道枝の頭部に命中した。当たりどころがわるかったようで、道枝は床に倒れてしまう。


「り、おん、待ちな……、さい」


 道枝は片手で頭をおさえ、もう片方かたほうの手は、吏隠に向かって伸ばした。


「テスラあ!」


 玄関からリビングに駆けこみ、吏隠は大声でテスラを呼んだ。広く、物がすくない部屋では声が響く。ダイニングテーブルの下をのぞいたが、いない。テレビの裏、戸棚の裏、椅子の下、観葉植物の裏、カーテンの裏。どこを探しても、子猫のすがたはない。


「にゃぁ……」


 キッチンのほうから、かすかに聞こえた。すぐに向かう。IH調理器やオーブン、冷蔵庫などが備えてあるキッチンに入る。壁のスイッチを押して灯りをつけた。


 大きなゴミ袋が、すみのほうにあった。袋の口は固く結ばれている。生ゴミが多く入っているせいか、袋は水を溜めたみたいにふくらんでいる。


「にゃぁ……」


 また鳴き声がした。その声は、明らかにゴミ袋の中から聞こえている。


「うそだ」吏隠はゴミ袋に近づく。「テスラ、いるの?」


 袋には赤い文字で、燃えるゴミ専用と書かれている。


「いやだ!」


 ゴミ袋を手で破る。


「いやだよ!」


 袋から発酵はっこうした臭いが溢れ。


「テスラ!」


 生ゴミに汚れた子猫を手に抱え、吏隠は涙を何粒も落とした。テスラの毛は濡れており、ベタついて、においもひどい。


「逃げよう、逃げよう……」吏隠は声を繰り返した。


 汚れたテスラを胸に押しつけ、立ち上がろうとしたが足に力が入らない。恐怖のせいなのか、悲しみのせいなのか、ケガのせいなのか。


 いずれにせよ、ここを離れる決意は変わらない。変わるわけがない。自分を奮い立たせるように、足に力を入れる。吏隠は、テスラを抱えて立ち上がった。


「ダメじゃない、ゴミ袋をやぶって散らかしたら」背後から声。吏隠の肩が一度、大きくふるえた。「でも、手間がはぶけてよかったわ。感情に流されて、生ゴミとして、捨ててしまったけど。ちゃんと手続きをするべきね。その猫を保健所に運びましょう。うちが出したゴミ袋から生きた猫が出てきた、なんて。ご近所きんじょに知られたら困るわ」


 腕のなかにいるテスラは、吏隠の顔を見上げ、心配そうに鳴いた。吏隠は、意を決して振り返る。


 銀色が光った。

 刃物だ。

 包丁が、道枝の手に握られている。


「その猫をちょうだい。ちゃんと手続きするのよ」

「いやだ……」

「くれないなら、猫を殺してあなたも殺すわ。あなたは失敗作なのよ。もう一度、産み直して最初から育てるわ。今度は失敗しないように」

「なにを言ってるの、母さん……」


 道枝の背後に濃紫のもやが見えて——背中におおいかぶさる。


「失敗、失敗、しっぱい!」


 道枝は包丁を振りかぶった。吏隠は短い悲鳴をあげ、とっさに身体を横にずらす。振り下ろされた包丁が、フローリングに刺さった。


「シッパイした、また、産マナイと!」


 道枝は両膝を床に落とし、頭を抱えてもだえはじめた。白い肌は紫に変わり、頭からは角が生え、爪は黒く、鋭く伸びる。喉から不協和音が鳴る。


 変わり果てた母のすがた。吏隠は叫んだ。母の横をすり抜けて廊下を駆ける。腕に力をこめた、テスラだけは離さないように。裸足のまま玄関のドアを開けた。あとは、遠くへ逃げるだけ。

 

 しかし、吏隠の足は止まった。目の前に人が立っている。


「こんばんは。ちょっと、いいかな?」西威せいは、にこやかに言うと、しゃがんで吏隠に視線を合わせた。「むこうで悪魔になっちゃったのは、きみのお母さんかな?」

「え……」

「そっか、そうだよね」西威はやわらかい口調で話す。「動転どうてんしてしまうよね。お母さんが突然、悪魔になったりしたら。だれだってびっくりする。でも、いまなら、人間にもどせるかもしれない」




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