ー拾ー
「ばかやろう! おまえのせいで、警察に目をつけられた!」
道枝は吏隠を怒鳴りつけた。自宅に入り、玄関のドアが閉まったとたんに豹変だ。引いていた吏隠の手を前に投げて、玄関に倒れさせる。
「落とし前をつけろ! 大人になったら死ぬほど働いて金を落としやがれ! 勉強以外のことはなにもするな!」
「母さん……、あの路地裏で猫は見なかった?」
高級ヒール靴を下駄箱にしまう道枝の背に、吏隠は、おそるおそる話しかけた。手をついて起きあがろうとしたが、身体じゅうが痛い。うつ伏せに近い姿勢で、顔だけを母の方に向ける。
「見たわよ」
「どこかに行った?」
「うちにいるわよ」
道枝の言葉に、吏隠の表情が晴れてゆく。
「飼ってもいいの?」吏隠は立ち上がり、食い気味に迫った。腰に痛みが走ったが、まったく気にならない。「猫が——テスラがいるなら、なんだって頑張るよ! 勉強も、習い事だって全部満点をとるよ!」
嬉々と話す息子をよそに、道枝の表情は変わらない。感情が凍結したみたいに、無表情のままだ。
「名前なんか、つけたのね。あのゴミに」
「ゴミ? なんで……、テスラはゴミなんかじゃない」吏隠の表情は、すぐに険しくなった。「どうしてそんなこと言うんだよ、テスラはゴミじゃない! テスラのことをゴミあつかいする人はだれだって許さない!」
激しい剣幕をぶつける吏隠の頬に、道枝の平手がまた飛んだ。
「いいよ、叩けばいい、息子とも思ってないくせに!」
言葉をさえぎるようにして、さらに頬をうつ。
「母さんなんか大っきらいだ」
「わたしもあなたがきらい」
「知ってるよそんなの!」
「思いどおりに動かない、あなたがきらい」
「ロボットみたいにいうなよ、ぼくは人間だ!」
「言うことを、聞きなさい」
「もういやだ!」
「ガキが、黙ってわたしの言うことだけを聞いていろ!」
「いやだ、こんな家、出ていく!」
道枝は吏隠の胸ぐらを掴もうとした、いつもみたいに。しかし今度は無理だった。ひどい形相で近づいてきた彼女を、吏隠の両手が強く押した。道枝はお腹を抱え、その場にうずくまってしまう。
さらに背負っていたリュックを投げつけた。教材が入った、重たいそれは道枝の頭部に命中した。当たりどころがわるかったようで、道枝は床に倒れてしまう。
「り、おん、待ちな……、さい」
道枝は片手で頭をおさえ、もう片方の手は、吏隠に向かって伸ばした。
「テスラあ!」
玄関からリビングに駆けこみ、吏隠は大声でテスラを呼んだ。広く、物がすくない部屋では声が響く。ダイニングテーブルの下を覗いたが、いない。テレビの裏、戸棚の裏、椅子の下、観葉植物の裏、カーテンの裏。どこを探しても、子猫のすがたはない。
「にゃぁ……」
キッチンのほうから、かすかに聞こえた。すぐに向かう。IH調理器やオーブン、冷蔵庫などが備えてあるキッチンに入る。壁のスイッチを押して灯りをつけた。
大きなゴミ袋が、隅のほうにあった。袋の口は固く結ばれている。生ゴミが多く入っているせいか、袋は水を溜めたみたいにふくらんでいる。
「にゃぁ……」
また鳴き声がした。その声は、明らかにゴミ袋の中から聞こえている。
「うそだ」吏隠はゴミ袋に近づく。「テスラ、いるの?」
袋には赤い文字で、燃えるゴミ専用と書かれている。
「いやだ!」
ゴミ袋を手で破る。
「いやだよ!」
袋から発酵した臭いが溢れ。
「テスラ!」
生ゴミに汚れた子猫を手に抱え、吏隠は涙を何粒も落とした。テスラの毛は濡れており、ベタついて、においもひどい。
「逃げよう、逃げよう……」吏隠は声を繰り返した。
汚れたテスラを胸に押しつけ、立ち上がろうとしたが足に力が入らない。恐怖のせいなのか、悲しみのせいなのか、ケガのせいなのか。
いずれにせよ、ここを離れる決意は変わらない。変わるわけがない。自分を奮い立たせるように、足に力を入れる。吏隠は、テスラを抱えて立ち上がった。
「ダメじゃない、ゴミ袋を破って散らかしたら」背後から声。吏隠の肩が一度、大きく震えた。「でも、手間が省けてよかったわ。感情に流されて、生ゴミとして、捨ててしまったけど。ちゃんと手続きをするべきね。その猫を保健所に運びましょう。うちが出したゴミ袋から生きた猫が出てきた、なんて。ご近所に知られたら困るわ」
腕のなかにいるテスラは、吏隠の顔を見上げ、心配そうに鳴いた。吏隠は、意を決して振り返る。
銀色が光った。
刃物だ。
包丁が、道枝の手に握られている。
「その猫をちょうだい。ちゃんと手続きするのよ」
「いやだ……」
「くれないなら、猫を殺してあなたも殺すわ。あなたは失敗作なのよ。もう一度、産み直して最初から育てるわ。今度は失敗しないように」
「なにを言ってるの、母さん……」
道枝の背後に濃紫の靄が見えて——背中に覆いかぶさる。
「失敗、失敗、しっぱい!」
道枝は包丁を振りかぶった。吏隠は短い悲鳴をあげ、とっさに身体を横にずらす。振り下ろされた包丁が、フローリングに刺さった。
「シッパイした、また、産マナイと!」
道枝は両膝を床に落とし、頭を抱えて悶えはじめた。白い肌は紫に変わり、頭からは角が生え、爪は黒く、鋭く伸びる。喉から不協和音が鳴る。
変わり果てた母のすがた。吏隠は叫んだ。母の横をすり抜けて廊下を駆ける。腕に力をこめた、テスラだけは離さないように。裸足のまま玄関のドアを開けた。あとは、遠くへ逃げるだけ。
しかし、吏隠の足は止まった。目の前に人が立っている。
「こんばんは。ちょっと、いいかな?」西威は、にこやかに言うと、しゃがんで吏隠に視線を合わせた。「むこうで悪魔になっちゃったのは、きみのお母さんかな?」
「え……」
「そっか、そうだよね」西威はやわらかい口調で話す。「動転してしまうよね。お母さんが突然、悪魔になったりしたら。だれだってびっくりする。でも、いまなら、人間にもどせるかもしれない」




