ー漆ー
漆黒の大獅子がひと飛びして、商用車に前足を乗せた。ワイシャツすがたの運転手が飛び出して、逃げる。検問所で渋滞する車のドアが次々に開く。
「逃げろ!」
「巻きこまれる!」
「か、怪物——!?」
人々は喚き散らし、その場から離れようとする。大獅子は車に噛みつき、軽々とふりまわす。ぬいぐるみで遊ぶ猫となんら変わらない。牙を穿ち、大口に咥えた重量一トン超の車体を、シキに向かって投げつける。
シキは横に大きく跳び、飛んできた車を避ける。爆発がおこった。うしろで煙があがる。大獅子が投げた車が、別の車に当たった。爆発の大音が、逃げる人々の混乱に拍車をかける。
「危ない!」
凛が前方を見て叫んだ。シキもそちらを向く。金色の槍、その矛先が光った。吏隠の背後に浮き、翼の形で集うそれらが放たれる。矢継ぎ早に、何本も。
シキは細かく跳ねて、槍を避ける。
槍がアスファルトに刺さる。
つぎの一本。
さらに数本。
まるで多弾頭ロケットのよう。
「シキ!」凛の声。
「集中しろ!」シキの頬に槍の刃がかすった。
「死ねよ、死ねよ、おまえらぜんぶ死んでくれよ!」
子供らしさは、完全に消失していた。かっと眼を開き、殺意をむきだしにし、吏隠は右手のひらを攻撃対象に向けつづける。そうすることで、槍がシキ向かって飛ぶのだろう。
「テスラ! 使えない純血は、噛み殺しちゃえよ!」
大声をあげながらも、吏隠は攻撃の手をゆるめない。
「おい、槍はもうないぞ!」
シキの声で、吏隠はうしろを見た。槍の翼がない。ずべて撃ち尽くした。軽い足音がして、前方に視線をもどす。シキの刀がくる。
吏隠は、手持ちの槍を地面に突き刺し、合掌をした。シキは構わず斬りかかる——垂直に刺さった槍が、平たく潰れ、左右に広がる。
槍は金色の壁に変わった。シキの視界は金一色になり——天秤刀は壁をけずり、火花を散らす。
しかし視界が金一色になったのは相手もおなじ。黄金の壁を蹴り、越えて——天秤刀の刃を吏隠に向ける。いまなら真上から攻撃できる。
しかし吏隠の全身が、金の球体に包まれた。さらにその球体から、鋭く長いトゲが何本も生えてくる。まるでウニみたいに。
シキは攻撃を中断し、空中で跳ねる。間一髪で、トゲに頭を突っこまずに済んだ。
「ふう、あぶなかった……」着地したシキの呼吸は速い。「寿司のウニは好きだが、きょうをさかいにきらいになりそうだ」
シキは横を見た。凛と大獅子が闘う様子が、視界におさまる。銃声と、緑の閃光。潰れた車から黒煙がのぼり、そのにおいが鼻をつく。
銃弾が黒獅子の頬をかすめる。
焼けつく痛みにうなる。
牙をむきだし、
鬼の形相で駆け、
前脚を叩きつける。
凛は横に転がり、大獅子の脚をかわす。
膝を地面につけ、体勢を整える。
呼吸を止めて、狙いを定め、引き金——
緑の閃光。
薬莢のにおい。
大獅子の悲鳴。
緑色の炎が前脚を一本、焼いていく。
「テスラ! きっさま、なにしたんだよ!」
吏隠は片腕を天に向かって伸ばす。どこからともなく集まった紙幣が、彼の周囲を飛びまわる。一枚いちまいが金の槍に変わり、宙に浮いてぴたり止まる。矛先はすべて、凛をにらむ。
「全部ぶっ刺してやる!」
吏隠は、あげた腕を強く下ろして凛を指さした。槍が、一箇所に向かって放たれる。そのあいだにシキが身をていする。放たれた槍は、風の盾に防がれ、左右に逸れてゆく。
「テスラを傷つけるやつは許さないんだよ、だれであっても!」
風に逸れた槍は地面に刺さる——ふたりは無事だ。
「たったひとりの家族なんだよ。あんたらわかってんの?」
気づくとシキと凛は金色に囲まれていた。見渡す景色のすべてが金。それ以外になにもない。
「凛、乗れ!」
凛は急いで背中にまたがる。
空が、金の天井に塞がれてゆく。
すぼんでいく天井の穴を抜けて外へ。
鈍い金属音が真下からひびく。
何本もの針が、筒状の金塊のなかで突出したような音——
「あーあ、これだよ」吏隠の苛立った口調だ。「もうちょっとで、おまえらを穴だらけにできたのに。ほんと、いらいらさせるね」
拷問器具のアイアンメイデン——いわばゴールドメイデンか。そんなことを考えながら、シキは着地する。
大獅子テスラは、一本の脚を失ったままだ。
「斬られた脚なら、もどるのに」吏隠は、苦しむテスラに歩み寄る。「なんでもどらない。なんで生えてこない」
吏隠はテスラの頭を優しくなでた。
一瞬の静寂。
止まった空気。
それを銃声が裂いた。
テスラの太い悲鳴がこだまし、黒毛の腹が燃える。
「あー、もう! 空気も読めないのかよ! これだから人間は——大人はぁっ!」
吏隠は片腕を伸ばし、テスラの口元に近づける。弱々しく、うなだれ、力を失いつつある黒獅子は、その腕を食った。
「なっ——」シキが唖然とする。
「食べた……」凛が言った。
細い腕を骨ごと飲みこんだテスラは、猫目を見開いた。失った脚も、焼けただれて肋骨がのぞく腹も、すべてが治っていく。
吏隠が深い呼吸をひとつすると、食われた腕が再生を始めた。細胞の一つひとつが何事もなかったように、再構築されてゆく。
「こんなの初めてだよ」吏隠は、新品の片腕をぶらぶらとゆすって、肩になじませる。「テスラはうるさいのが苦手なんだ。車の走る音とか、人混みの喧騒とか。犬の鳴き声とか、銃声とか。大っきらいなんだよ」
吏隠は、一本の槍を手にとる。そのとなりで全快したテスラが猫らしく前脚の肉球を舐めた。
少年と猫。
少女と犬。
たがいに殺気をぶつけあう。
「テスラは死なない。ぼくの心臓を食わせてでも、この子の命だけは終わらせない」




