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刀闘記  作者: 燈海 空
天童風龍 篇
75/96

ー伍ー


 翡翠色の髪は風になびき、にわかにひかる。さきほど負った重症も、完全に治癒した。秋の全身、細胞のすべてが活性化している。


 かすみが祭壇の火に投げた神木しんぼくの力が、遠く離れた秋に伝わり、身体能力が、さらに高まってゆく。


 津達は苦しんでいた。

 両手で頭を抑え、

 左右に分かれようとする脳を、

 くっつけあわせて留める。

 脳が斬られても話せている。

 肺が斬られても息ができる。

 それが、白魔という生き物。


 秋の刀は動きつづける。波のように押し寄せる下位魔たちを斬っていた。何匹も、何匹も。上空から、いくつもの黒い点が近づいてくる。


 秋の足は地から離れたままだ。身体は四方へ、八方へと飛ぶ。刀と風が、黒き翼を裂いてゆく。


「なんだあの悪魔祓い……」


 討魔分隊員の視線が、秋の動きに釘づけになった。


「まるで糸に釣られた人形みたいに、宙に浮いたまま——」

「自分の仕事に集中しろ! 街が悪魔にまれるぞ!」

「ああもう!」隊員は、いまだにスマホで現場を撮影する野次馬を一瞥いちべつする。「なんでこんな状況でも、スマホで撮影なんかしてられるんだ! あんたら死ぬぞ!」


 隊員が言うまでもなく、野次馬のひとりが、おそわれそうになった。腰を抜かして尻餅をつき、スマホを地面に落としてしまう。爪が喉元に迫る。しかし、その爪はすぐに塵に変わる。風が吹きつけた。優しく、するどい風。


「あの悪魔祓い、この数分で何匹を倒した——」隊員が言った。

「おれたちが百人いてできるかどうかの仕事を、たったひとりで——」


 ああ——なにもできない、津達はそう思っていた。ただ座って、身体を治しているだけ。自己再生が追いつかない。同胞が、風の子に斬られてゆく。


 二本ある純銀色の角の片方かたほう。右の角に津達の魂がある。全身の中で一番硬い部分だ。そこに自分の弱点を隠していた。


「わかる——そこだ」


 振られた刀身が、角に食いこむ。純銀色の欠片かけらが飛んで、秋の頬に傷をつける。かまわず腕に力を入れる。振り切る——。


 手から伝わる開放感。

 断末魔だんまつま

 隊員たちは耳を塞いだ。

 下位魔ですらも動きを止め、津達を見た。


 膝を折り、すねを地面につけ、上半身は空に向かって反り返る。痛みで、身体が反射的に動いた。折れた角から、はらはらと塵が舞う。ゆっくりと崩れるように、全身が塵に変わっていく。


「できそこないは、この程度——」ビルの影で、白魔の王は言った。


 まるで風の神が地におりて闘ったような、清々《すがすが》しい剣風の余韻よいんが、ビル間の湿った風にまじって——吹く。



 ・…………………………・


「ねぇ、お父さん?」

「どうした?」

「お酒って、躰にわるいの?」

「すこしの量だったら、薬だって言われているね。でも飲み過ぎたら毒になる。なんだってそうだよ。おまえが毎日飲んでいる薬も、ほんとうは毒なんだよ」

「え……、ぼく死んじゃうの?」

「ちがうよ。長生きをするために、毎日、飲んでいるんだ」

「お父さんは、なんで毎日お酒を飲むの?」

「それは……、お仕事だからだよ」


 津達は、困った顔をした。

 ほんとうは好きで飲んでいる、と言いたい。


「お父さんのお店は、どうして夜しか、お客さんがいないの?」

「このお店はね、昼間に沢山お仕事をして、疲れた人たちに、おかえりっていうためのお店なんだ。がんばったみんなに、おつかれさま、といって美味しいお酒をふるまうんだよ」


 津達が柔らかい布でグラスを磨く。

 手元から、きゅ、きゅと音が鳴った。


「ぼくは、いつになったら、お父さんのお酒を飲める?」


 少年は父の顔色をうかがう。

 津達は、ばつの悪そうな顔をした。


「お父さん……?」

「ああ、ごめんよ」

「どうしたの?」

「ううん。大丈夫だよ」

「ねぇ? いつになったら、お父さんのお酒が飲める?」

「そうだね、一二じゅうに年後かな」

「いま、飲みたいよ」

「いまでも飲めるお酒があるよ」

「ほんとう!?」


 少年は喜んで、バーカウンターに身を乗り出す。


「ノンアルコールカクテルだよ。本物のお酒ではないけど、味はほとんど変わらない。つくってあげよう」

「わーい、ありがとう、お父さん!」


 シェイカーの音に心電計の音が混じる。その電子音はいま鳴っていない。津達の記憶の中で鳴っている。


 息子が産まれた日。

 津達の妻は死んだ。

 産声と引き換えにして。


「あっ!」津達の手がすべり、シェイカーが投げられてしまう。

「わっ! お父さん」息子は笑った。「銀色のコップ、むこうに飛んでいったよ」

「考えごとをしてしまった……」

「ぼくのカクテルは?」

「こぼれちゃったから、またつくるよ。待っててね」

「お父さん」

「ん?」


 津達は足を止めて、カウンターに座る息子を振り返った。二重にしたマスクと、腕に刺さる点滴の針が、痛々しい。余命を医師に告げられた、そのすぐあと。いちばん行きたいところはどこだ、と津達は息子に問うた。


 お父さんのお仕事を見たい——それが答えだった。


「おなじ病気の友達が最近できたんだ」

「そうなのかい? それはよかった」

「でも、その子ね。こないだ、いなくなったんだ。ねぇお父さん、ぼくもあの子みたいにいなくなるの?」

「治るよ……」


 津達は、息子から視線そらした。


「お父さんがかならず治すから」

「治ったら、お父さんのお酒を飲める?」

「飲めるよ」

「ねぇ、どうやって治すの?」

「このあいだね、セイっていう、お兄さんが話してくれたんだ」


 津達にすこしの笑顔がもどった。


「ハクマっていう仕事をすれば、そのご褒美に、友也ともやを元気にしてくれる。友也は、人間なんかよりも、もっと強いヒーローになれるんだよ。病気なんかこわくない、あっというまに治る」


 友也の表情が、みるみる明るくなってゆく。


「いつ! いつ、そのハクマってお仕事をするの!?」

「今度、ハクマのみんなが、このお店に集まる。それから大きなお仕事をする」

「おっきなお仕事って、どんなお仕事?」

「自分のことばかり考える、わるい大人をたくさんやっつけるんだ」

「すごい、お父さん、ヒーローだね!」

「お父さんよりも長生きするんだよ。一秒でも、長く生きていてくれ」

「うん!」

「約束だ——」



 頭髪をすべて失った津達友也の口には、大掛かりな酸素呼吸器がてられている。心電計の音が次第にテンポを遅くする。ベッドのそばに立つ医師が、腕時計に目をやった。


「お父さんはどうしたんだ」

「なにか大きな仕事があるとかで……」


 四人いる看護師のうち、ひとりが応える。


「息子さんの最後を看取ることより大事な仕事なんて、どこにある」

「友也くん……」


 女性看護師が両手で顔を覆った。

 涙をこらえている。

 彼女はずっと友也の担当だった。


「もう、手は尽くした」医師が顔をふせる。

「なんとかならないんですか、まだ八歳ですよ」

「むしろ、よく耐えてくれたと思う。悔しいが、この子にできることは、もうない……」

「先生。新宿、なんだか大騒ぎみたいです」入室してきた看護師が言う。「まさか、お父さん、巻きこまれてないですよね?」

「友也くん、がんばって」担当だった看護師がちいさな手を握る。「せめてお父さんがくるまで……」


 音が鳴った。一本の棒のような音だ。長く、細く、平らな電子音。その音はちいさな命の終わりを無機質に告げる音だった。


 ・…………………………・


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