ー伍ー
翡翠色の髪は風になびき、にわかに煇る。さきほど負った重症も、完全に治癒した。秋の全身、細胞のすべてが活性化している。
かすみが祭壇の火に投げた神木の力が、遠く離れた秋に伝わり、身体能力が、さらに高まってゆく。
津達は苦しんでいた。
両手で頭を抑え、
左右に分かれようとする脳を、
くっつけあわせて留める。
脳が斬られても話せている。
肺が斬られても息ができる。
それが、白魔という生き物。
秋の刀は動きつづける。波のように押し寄せる下位魔たちを斬っていた。何匹も、何匹も。上空から、いくつもの黒い点が近づいてくる。
秋の足は地から離れたままだ。身体は四方へ、八方へと飛ぶ。刀と風が、黒き翼を裂いてゆく。
「なんだあの悪魔祓い……」
討魔分隊員の視線が、秋の動きに釘づけになった。
「まるで糸に釣られた人形みたいに、宙に浮いたまま——」
「自分の仕事に集中しろ! 街が悪魔に呑まれるぞ!」
「ああもう!」隊員は、いまだにスマホで現場を撮影する野次馬を一瞥する。「なんでこんな状況でも、スマホで撮影なんかしてられるんだ! あんたら死ぬぞ!」
隊員が言うまでもなく、野次馬のひとりが、おそわれそうになった。腰を抜かして尻餅をつき、スマホを地面に落としてしまう。爪が喉元に迫る。しかし、その爪はすぐに塵に変わる。風が吹きつけた。優しく、するどい風。
「あの悪魔祓い、この数分で何匹を倒した——」隊員が言った。
「おれたちが百人いてできるかどうかの仕事を、たったひとりで——」
ああ——なにもできない、津達はそう思っていた。ただ座って、身体を治しているだけ。自己再生が追いつかない。同胞が、風の子に斬られてゆく。
二本ある純銀色の角の片方。右の角に津達の魂がある。全身の中で一番硬い部分だ。そこに自分の弱点を隠していた。
「わかる——そこだ」
振られた刀身が、角に食いこむ。純銀色の欠片が飛んで、秋の頬に傷をつける。かまわず腕に力を入れる。振り切る——。
手から伝わる開放感。
断末魔。
隊員たちは耳を塞いだ。
下位魔ですらも動きを止め、津達を見た。
膝を折り、すねを地面につけ、上半身は空に向かって反り返る。痛みで、身体が反射的に動いた。折れた角から、はらはらと塵が舞う。ゆっくりと崩れるように、全身が塵に変わっていく。
「できそこないは、この程度——」ビルの影で、白魔の王は言った。
まるで風の神が地におりて闘ったような、清々《すがすが》しい剣風の余韻が、ビル間の湿った風にまじって——吹く。
・…………………………・
「ねぇ、お父さん?」
「どうした?」
「お酒って、躰にわるいの?」
「すこしの量だったら、薬だって言われているね。でも飲み過ぎたら毒になる。なんだってそうだよ。おまえが毎日飲んでいる薬も、ほんとうは毒なんだよ」
「え……、ぼく死んじゃうの?」
「ちがうよ。長生きをするために、毎日、飲んでいるんだ」
「お父さんは、なんで毎日お酒を飲むの?」
「それは……、お仕事だからだよ」
津達は、困った顔をした。
ほんとうは好きで飲んでいる、と言いたい。
「お父さんのお店は、どうして夜しか、お客さんがいないの?」
「このお店はね、昼間に沢山お仕事をして、疲れた人たちに、おかえりっていうためのお店なんだ。がんばったみんなに、おつかれさま、といって美味しいお酒をふるまうんだよ」
津達が柔らかい布でグラスを磨く。
手元から、きゅ、きゅと音が鳴った。
「ぼくは、いつになったら、お父さんのお酒を飲める?」
少年は父の顔色をうかがう。
津達は、ばつの悪そうな顔をした。
「お父さん……?」
「ああ、ごめんよ」
「どうしたの?」
「ううん。大丈夫だよ」
「ねぇ? いつになったら、お父さんのお酒が飲める?」
「そうだね、一二年後かな」
「いま、飲みたいよ」
「いまでも飲めるお酒があるよ」
「ほんとう!?」
少年は喜んで、バーカウンターに身を乗り出す。
「ノンアルコールカクテルだよ。本物のお酒ではないけど、味はほとんど変わらない。つくってあげよう」
「わーい、ありがとう、お父さん!」
シェイカーの音に心電計の音が混じる。その電子音はいま鳴っていない。津達の記憶の中で鳴っている。
息子が産まれた日。
津達の妻は死んだ。
産声と引き換えにして。
「あっ!」津達の手がすべり、シェイカーが投げられてしまう。
「わっ! お父さん」息子は笑った。「銀色のコップ、むこうに飛んでいったよ」
「考えごとをしてしまった……」
「ぼくのカクテルは?」
「こぼれちゃったから、またつくるよ。待っててね」
「お父さん」
「ん?」
津達は足を止めて、カウンターに座る息子を振り返った。二重にしたマスクと、腕に刺さる点滴の針が、痛々しい。余命を医師に告げられた、そのすぐあと。いちばん行きたいところはどこだ、と津達は息子に問うた。
お父さんのお仕事を見たい——それが答えだった。
「おなじ病気の友達が最近できたんだ」
「そうなのかい? それはよかった」
「でも、その子ね。こないだ、いなくなったんだ。ねぇお父さん、ぼくもあの子みたいにいなくなるの?」
「治るよ……」
津達は、息子から視線そらした。
「お父さんがかならず治すから」
「治ったら、お父さんのお酒を飲める?」
「飲めるよ」
「ねぇ、どうやって治すの?」
「このあいだね、セイっていう、お兄さんが話してくれたんだ」
津達にすこしの笑顔がもどった。
「ハクマっていう仕事をすれば、そのご褒美に、友也を元気にしてくれる。友也は、人間なんかよりも、もっと強いヒーローになれるんだよ。病気なんかこわくない、あっというまに治る」
友也の表情が、みるみる明るくなってゆく。
「いつ! いつ、そのハクマってお仕事をするの!?」
「今度、ハクマのみんなが、このお店に集まる。それから大きなお仕事をする」
「おっきなお仕事って、どんなお仕事?」
「自分のことばかり考える、わるい大人をたくさんやっつけるんだ」
「すごい、お父さん、ヒーローだね!」
「お父さんよりも長生きするんだよ。一秒でも、長く生きていてくれ」
「うん!」
「約束だ——」
頭髪をすべて失った津達友也の口には、大掛かりな酸素呼吸器が充てられている。心電計の音が次第にテンポを遅くする。ベッドのそばに立つ医師が、腕時計に目をやった。
「お父さんはどうしたんだ」
「なにか大きな仕事があるとかで……」
四人いる看護師のうち、ひとりが応える。
「息子さんの最後を看取ることより大事な仕事なんて、どこにある」
「友也くん……」
女性看護師が両手で顔を覆った。
涙をこらえている。
彼女はずっと友也の担当だった。
「もう、手は尽くした」医師が顔をふせる。
「なんとかならないんですか、まだ八歳ですよ」
「むしろ、よく耐えてくれたと思う。悔しいが、この子にできることは、もうない……」
「先生。新宿、なんだか大騒ぎみたいです」入室してきた看護師が言う。「まさか、お父さん、巻きこまれてないですよね?」
「友也くん、がんばって」担当だった看護師がちいさな手を握る。「せめてお父さんがくるまで……」
音が鳴った。一本の棒のような音だ。長く、細く、平らな電子音。その音はちいさな命の終わりを無機質に告げる音だった。
・…………………………・




