ー参ー
「その娘を返してもらう」
シキはスーツの男に言った。
「なにその声」反応したのは少年だ。「刀咥えてるからうまくしゃべれないんでしょ」
「う、うるはい!」
「うるはい、だって。犬がしゃべるってだけでもおもしろいのに、こりゃ傑作だ。おじさんもそう思わない?」
少年は、となりに立っている高級スーツの男に会話をふった。男は、自身の右腕をながめている。しかしその腕、肘からさきが刃だ。幅広で、刃渡りは普通の太刀より長い。色は、宇宙空間のそれと酷似している。星空のような、ちいさな白点たちがゆるやかに、闇の刃をただよう。
「おじさんか」スーツの男が応える。「言葉使いが悪いな、礼儀がなってない。しつけが必要か?」
「しつけが必要なのは、そこの犬だよ。刃が二本もある骨を咥えて、こっちを向いてうなってる」
「どっちが闘う?」
男が闇の刃をだらりとおろすと、みるみる人の腕に戻ってゆく。
「わたしのほうが移動は、速いが」
「だからあ……」少年はあきれた様子で、「最初からおじさんの能力で純血をカナンに連れて行けばよかったんだよ。なんでわざわざ車で向かうのさ。しかも交通ルールなんて、だっさい人間のルールを守ってさ」
愚痴をつらつらと吐く少年に対し、高級スーツの男は鼻で笑ってみせる。それが返事の代わりだ。
「おい」シキがさえぎる。「おまえらは白魔だな?」
「見りゃわかんでしょ。ぼくの髪も、おじさんの髪も白。ぼくの眼も、おじさんの眼も赤。あ、そっか——犬って色盲なんだっけ」
「こら吏隠」スーツの男は少年を一瞥した。「まずは挨拶をしろ。自己紹介だ。少女と犬を斬って捨てるのは、こちらの礼儀をとおしてからだ」
「わかったよ、安東さん。ちゃんとこいつら殺すから、お金貸して」
安東は、なかばあきれた表情で吏隠に近く。スーツの胸ポケットから札束を取り出し、それを渡す。
「 純血を連れて行く。行儀よく、血祭りにして差しあげろ」
「 はいはい」
吏隠は、澪の手と札束と交換した。安東は、受けとったその手を右手で引きながら、左手をひらいて正面にかざす。すると、目の前が暗く歪みはじめた。
その歪みは大きな卵形になった。色は宇宙。異空間——闇の扉か。澪は安東に引かれるまま、そのなかへと足を進める。ふたりの背中が闇に包まれて見えなくなる。闇の異空間は、一点に収縮して消えた。
「シキ」凛の声が焦る。「どうしよう……、カナンに連れて行かれたの?」
「追うぞ!」
シキが言って、凛は兄の背にまたがった。
それを見た吏隠は大きなため息をつく。
「無視すんなよ。空気が読めねぇ犬と女だな」
紙幣は舞い、一枚、また一枚と吏隠の周囲に並び、輪となる。
空中をぐるぐると、浮いてまわっている。そのさまは土星の環に似ている。
紙幣たちは、縦にぴんと姿勢を正す。
規律を乱さぬよう、吏隠の意思にしたがう。
「殺メ札・金鉄ノ槍」
吏隠は術を唱え、浮いた札束の一枚を指ではねた。その一枚は金塊に変わり、そこから槍のかたちに変化した。吏隠は宙に浮いている槍を手に持った。
ほかの紙幣たちも、吏隠のまわりで槍に変化していく。宙に浮いたまま主のそばに寄り添い、天に矛先を向けて整列し、メリーゴーランドの馬のようにまわる。
槍たちは一本、また一本と、矛先をシキと凛に向けはじめた。左右に広がり、吏隠の背後にあつまる。それぞれが寄りそって、翼のかたちをつくってゆく。その翼は、少年をひときわ大きく、威風のあるものに感じさせた。
「逃げられると思うなよ」吏隠の声は殺気をふくんでいる。「どんなに速く逃げても、槍がかならず追いつく。おまえらの背中に穴があく」
「凛、闘おう」シキはあごに力をいれた。
「でも……」
「甲斐那は純血をすぐに殺そうとはしない。あの性格からして、しばらくは澪を舐めまわす。気味のわるい、趣味のわるい、眼差しで」
「わかった……」
凛は、しかたなくシキから降りた。その足は震えた。腰から刀を抜く。
柄を握る右手も震える。左手は銃を抜いた。
「二対一だ」シキが声を投げる。「さっさと終わらせる」
「は? ばかじゃないの? 二対二だよ。テスラ……、そこのうるさい犬なんか噛みちぎって殺しちゃえよ」
黒猫——テスラは全身の毛を逆立てて、うなりだした。ごろごろと喉が鳴る。その音が次第に太くなる。声の太さに比例して、全身はひとまわり、ふたまわりと巨大化する。その段階的な変貌を追うシキの視線は、一段、また一段と上を見上げることになり——
ついに全長は七メートル、全高は四メートルに届いた。漆黒の長毛はとげとげしく逆立ち、ただでさえ大きい身体をことさらに強調した。
「凛、まずは死ぬな」
「うん……」
凛は手の震えをこらえる。
シキは天秤刀の柄に、歯に深く食いこませた。
*
「こっちだ、立神」
秋の刀が、トンファーの刃を受け止める。
すかさず反撃。
目の前にいるはずの敵が、霞となって消える。
うしろからの殺気。
振り返り。
刀を薙ぐ。
今度は、肉を斬った感覚が五感に走る——走ったが、その感覚も水泡に帰す。
気配は、四方八方から押し寄せてくる。
複数の気配。
複数の殺気。
しかしそれは、
ひとりの気配で、
ひとりの殺気だ。
「どれだ……、どいつを斬ればいい」
「ここだ、立神秋」うしろから声。
「どこを見ている」真横からの声。
剣風が秋の頬をかすめる。頬に赤筋が流れ、細い血が滴れる。
「若いな」
振り返り、刃を受け止める。
津達の表情が見えた、笑みを浮かべている。
その笑みも、すぐに霞となる。
斬っても、受けても、手応えは露のように消える。
「酒の味がわからない未成年らしい、青々しさだ——テイストといこう」
前方に一〇人の津達。
扇状に陣をとり、じりじりと歩んで迫る。
「この美酒——おまえにちがいが、わかるか」
秋は刀を構えなおし、目をこらす。
「さぁ、飲んでみろ」
一〇人のうち、ひとりが本体。
あるいは、全員がまぼろし。
「相手にしてられるか……! いまは澪を……」
秋はここから離れようとした。
この闘いは無駄だと思った。
「おれは白魔だ。無差別に人を殺してまわる。どんなやつだろうが、悪魔に変えてもてあそぶ。そんなやつを放っておいていいのか?」
「卑怯もの——」秋の瞳孔が開いた。「なんだ……?」
右から三番目にいる津達に緑色のオーラが見える。まぶたを何度かまばたかせ、小刻みに頭を振る——自分が正気であることをたしかめる。やはりオーラはある。
息を吸って。
地面を強く蹴り、翔る。
突風のいきおいのまま。
津達を斬る。
刃が折れた音。
からんと音が鳴り。
トンファーの刃が、地面に転がる。
分身が消えた。
こいつが本物だ。
片足を踏みこみ。
横に、
強く、
斬る。
白魔の腹が裂け、乾いた塵が剣風とともに弾ける——




