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刀闘記  作者: 燈海 空
天童風龍 篇
71/96

ー壱ー


 高層ビルの屋上は、地上から数えて約一三〇メートルの高さがある。そこに立って目をつむり、秋は姿勢を正した。


 深く呼吸する。ここの空気は、地上のよどんだ空気とはちがう。汚れた空気は下へ、下へとちて、コンクリートジャングルの底に溜まってゆく。ここは解放的な空気だ。涼しい風が黒髪をなびかせる。


 刀を抜くときの、心地よい感触が久しい。刀身が太陽に反射する。しろがねのきっさきが、いつに増してするどく思える。空になった鞘を、背中に背負う。


 気配を感じた。それは、明らかに刀が教えてくれた気配だった。目を開けて、視線を遠くにやる。車が行き交う道路が見えた。そのなかの一台、漆黒しっこくの高級車に違和感——。


「あれか?」秋は刀に問いかける。「あの車に、澪が乗ってるのか?」


 刀が震えた。澪を助けに行け、と妖刀はたしかに言っている。


 ビルから飛び降る。

 頭を真下にして墜ちる。

 いくらか墜ちたところで、ビルの外壁を蹴る。

 空を、平行に滑空する。

 風が揚力ようりょくをくれる。


 一匹の悪魔が真横から飛んでくる。

 そいつは、秋に追いつくと爪を振った。

 空中で攻撃を受け止める。

 急な方向転換を余儀よぎなくされた。

 

 刀と爪が、力強く重なったままいきおいに押される。漆黒の翼が力強く羽ばたく。そのまま秋は、ビルの窓に押しつけられ、窓ガラスが割れ、大きな音。オフィスは騒がしくなる。


「な、なんだ!」パソコンにかじりついていたワイシャツ姿の男性が、あわてて立ち上がった

「きゃ!」若いOLたちは逃げだした。


 秋は悪魔の爪との鍔せり合いに耐える。あおむけのまま、灰色のデスクに全身を押しつけられ、歯を食いしばる。


「タチガミ、コロセ!」悪魔は荒い鼻息とともに言った。


 個人に対して殺戮欲求を抱くのは、悪魔ならばよくあること。しかし、それのほとんどは私怨だ。


 たかが二、三日を過ごしただけの東京の地だ。見知らぬ者から名指しで殺したいと言われるほどのうらみを買った記憶など——秋にはない。


「コロセ、コロセ! タチガミを、コロセ!」


 秋は悪魔の腹を蹴った。空砲を食らったように相手は吹っ飛ぶ。その背中は、天井に打ちつけられた。よだれと胃液が口から飛沫ひまつする。くちびるの色はもとより紫だ。


 天井に向かって跳ね、悪魔の腹に刀を穿つ。そのまま刀身を横になぎ天井ごと裂く。オフィスに似つかわしくない塵が舞った。


 一匹を倒したくらいで、休んでいる暇などなかった。窓に目をやる。七匹ほどの悪魔が、このビルに向かって飛んでくる。


「ここの人たちを、巻きこむわけにいかない……」


 悪魔たちを空中で迎え撃つ覚悟を決める。広い空間で闘うよりも狭い室内で闘った方が、一対多の闘いにおいては有利だ。廊下などは最高だろう。一対一の闘いに持ちこむことができる。しかしその選択肢はいま、考えてはいけない。


 窓から飛び出せば、悪魔の群れは一気に襲いかかってくる。地上に落ちるまでの数秒間。壁も、足場もない状態で、悪魔たちの攻撃をすべて防ぎきれか——。


 秋は割れた窓ガラスに近づく。窓枠に足をかける。風を感じる。悪魔からただよう邪風が鼻に触れる。

 

 堕ちる。

 悪魔が集る。

 何本もの爪が襲いくる。

 秋は躰を回転させる。

 刀身はすくなくとも三匹を裂いた。

 体幹をひねり、刀を踊らせる。

 竜巻の風。

 コマのように回転しながら、刀を薙ぐ。

 悪魔は裂かれる。

 真上から来る。

 仰向けで刀を振る。

 悪魔の指間に刀身が食いこむ。腕が裂かれ、上半身が二分される。

 次は正面から来る——しかし悪魔は急降下した。


「フェイント——?」


 左からの殺気。急降下した悪魔はおとりだった。ならば、左のは無視して、こちらも急降下する。その動きは予想していなかったのか、悪魔はおどろいた。


 一匹に刀を突き刺して、地面まで落下する。腹を踏まれ、喉を刺されたまま、アスファルトに叩きつけられ——悪魔は口から血を吹く。そして塵。


 地面に刺さった刀を抜き、刀身をあらためる。美しい刀身が鏡となり、顔を映す。頬に血がついていた。

 

 悪魔が口から吹いた血だ。

 群衆は逃げだした。

 秋の顔を見て、逃げだした。


「あ、悪魔祓い!?」

「逃げろ、あいつに殺される——!」


 みなが声をあげた。

 秋は目を伏せた。

 これだ。

 これだから人間はこわい。


 どんなに正しいことをしても、人は上っ面だけしか見ない。景色だけを見て、真実を見ようとしない。


 澪を助けるんだ、ほかは考えるな——


 雑念をきらって、秋は視線を持ち上げた。タキシード姿で、髭の白い、目が赤い男が視界に入った。秋に怯え、逃げ惑う群衆の中で、彼だけは動じずに立っている。


 その男は両手にトンファーを持っていた。棍の部分が普通のより長く、黒光りをしている。男の手首から、肩まで長さがあるそれはやいばだ。あれはトンファーのかたちをしているが、その実は刀だ。


「夏の昼間だ」


 そう言って、白髭の男はゆっくりと歩を進める。歩む速度に合わせるように、閉じていたまぶたを開く。男は視界の中央に秋を置いた。


「いくら口当たりがいい酒でも、昼間に飲む酒は、人を堕落だらくさせる。だが、おまえは《《飲めない》》。風使いの未成年——立神秋。白魔のあいだでは有名人だ。闘えることを光栄に思う」


 混乱し、逃げまどう群衆の流れに逆らいつつ——男はしずかな殺気を漂わせる。


「きょうはオレンジを切らしていてな」片方のトンファーをくるり、と回転させて、「ブラッドオレンジはつくれそうにない。ただのブラッドだ。まずはおまえから、血をいただくとしよう」


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