ー陸ー
「やだ……、やめて……、ヤメテクれ……」
どうしたことか、不自然に生えた巨腕がぼろぼろと剥がれ落ちるように、塵と化していく。
ほぼ人間のすがたに戻ったカズマが、目の前にいた。秋はためらった。
急接近する車両の音が聞こえる。
双眼のライトがこちらを照らした。
「秋、迷うな!」
運転席の窓を開けて須賀が叫ぶ。いままで、血の気が引く想い闘いを見守っていたが、決着をさとり、近くまで駆けつけた。
「ああ……!」
人間のすがたに戻りかけているカズマは、あわてて自分が放り投げたバイクのところまで駆け寄り、両手で持ち上げる。またがって、エンジンをふかす。塗装はボロボロに剥がれ、所々が凹んでいるがエンジンは生きていた。
「くそっ……!」
すぐに、カズマを斬ろうと駆ける。しかし相手は、ほぼ人間だ。迷った。良心が足を遅らせる。心がかぎなわで引っ張られるような感覚が襲う。二輪は——すでに道を転がり始めている。
このまま逃してしまえばいずれ躰を治し、だれかを襲う。それだけは避けねばならない。
エンジン音と共に、カズマが離れてゆく。
刀はもう届かない。
「秋、乗れ!」
須賀は運転席から叫ぶ。
その声で秋は、我にかえった。
車のボンネットに飛び乗る。
フロントガラスを手のひらで叩き、出せ! と合図をした。
後悔した。
すぐに斬るべきだった。
でもはじめてだった。
悪魔が人間にもどろうとする瞬間など、遭遇したことはなかった。
——まだチャンスはある。
心を殺して、事態を終わらせろ。
車のタイヤが煙をはく。アスファルトを焼きながら、セダンは急発進。
「落ちるなよ!」
峠道では、四輪のほうが不利だ。須賀の追走——その甲斐あって、朧火のように揺れるバイクのテールライトを、フロントガラス越しに確認できてはいるが、あと三十メートルの距離をちぢめられない。
秋は手のひらに吸い込みの風を発生させ、車のボンネットに吸着させて、はりついている。いくら車に揺さぶられても落ちる気配がなく、姿勢は安定している。
「おっさん!」強い風に吹かれながら秋が叫ぶ。「直線だ、直線までもってくれ!」
タイヤはいくども摩耗し、カーブの度に悲鳴と白煙を散らした。道を曲がる度にバイクのすがたが見え隠れする。
やっと、長い直線が見えた。
カズマは右手を思い切りひねる。
バイクはさらに加速。
須賀の右足が、アクセルペダルを深く蹴りこむ。
バイクまであと十メートル。
両足をフロントガラスに押しつけ、しゃがみ込む。離陸体制と呼ぶにふさわしい格好。機を逃さぬよう、思い切り、ガラスを両足で蹴る。須賀の視界にヒビが入る。
秋は一直線に、レーサーの背中を追って飛んだ。燕のように、バイクの速度よりも速く。相手を追い越しながら、刀は水平に、人間とも悪魔ともつかない躰を裂いた。
車が横滑りをしながら止まる。須賀は運転席からあわただしく降りた。仰向けに倒れる秋に駆け寄る。かなり取り乱しながら。
「秋、大丈夫か! おい!」
目をつむり、ぐったりと倒れている秋の顔はすり傷だらけだ。腕や足にも、相当な数のアザがある。須賀は、秋の上半身を抱き起こした。
「いま、救急車呼ぶからな、待ってろ、死ぬな!」
左腕で秋を抱えながら、右手はシャツの胸ポケットに。あわてて携帯電話を取り出そうとする。
「おおげさだよ、おっさん……」
あたふたする須賀の腕に抱かれながら、ぼやっとした秋の声が。
「どっか骨折したんじゃねぇのか? 痛むところは?」
「大丈夫。あいつ斬ることしか考えてなかったから、受け身の風を呼ぶの、忘れた……」
「すまねえ、おれが邪魔をしたせいだ」
「いや……」
秋は上体を起こそうとした。しかし思うように力が入らない。けっきょく、おっさんの腕に躰をあずけることに。
「おれが迷ったせいだ。悪魔は斬らなきゃいけない。人間の面影なんて、感じたらいけないんだ」
一度、悪魔になった人間は二度と戻らない。
逃して新たな被害者を生むか。
斬って終わらせるか。
その二択しかない。
たとえ、人にもどろうとあがいているすがたを見たとしても、刀は悪魔を斬るためある。
「悪魔は——悪魔」
秋は言って、前歯でくちびるを噛んだ。どうして迷ったのか。どうして良心なんかを起こしたのか。自分の頬を殴ってやりたくなった。
「だが、そうなる前は人間だった。おまえは、なにも狂っちゃいないさ」