ー拾ー
朝の空気は、ほんのりと冷ややかだった。ビルの間を駆け抜けてきた、生温い都会の風でも心地よさはあった。ホテルからジェイド教会に行く途中に見上げた空は快晴。
「天気予報はこのさきずっと晴れだね」澪が言った。
「早く帰りたい」歩きながら、秋が言う。
「ま、いろいろ済ませないとね。おたがいに」
ふたりが教会の礼拝堂に入ると、きのう出会ったジェイドの面々に加え、見覚えのない顔が四つあった。
睦月と一月——そして凛。もう一匹は超大型犬。
「おっはよ、うご!? わんちゃん!? 飼ってたんですか?」
澪の声が礼拝堂に響いた。イエス像の前に全員が集合しているが、優香のすがたはない。
「澪ちゃん秋くん、おはよう!」
手を振りながら藤次が声を投げた。
「みんなから話し聞いてるよ、いらっしゃい!」
睦月の飾らない声色を耳にした秋はすこし安心した。おなじ悪魔祓いなんだろうな、とは直感しつつ。
「きのうはいなかったのに。ねんねしてたの? かわいい」
澪は、シキの首筋をわしゃわしゃと掻いてやった。
「どんな反応するかな」栞菜がニヤついた。「澪ちゃん、そのわんわん、ちょっとおもしろいわよ」
「え? 大きさですかぁ?」とろけるような顔をして、澪はシキの耳を触りだした。「たしかに、このサイズのわんわんは見かけないです。かぁわいい」
するとシキが突然、秋の方を向いて鼻をひくひくさせた。
「おまえ——! 風使いか!」
『——は!』
おどろいたのは、澪と秋のふたりだけ。ほかのみなは、あたかもドッキリが成功したような顔をしている。
「しゃべった」秋は唖然としたが、すぐに銀次が頭をよぎる
「おまえ、師匠はだれだ」シキは秋に近づいて、くんくんする。
「え——」
「剣の師匠だ」
「じいちゃん」
「名前は」
「銀次」
「立神か——!」
シキはいきおいよく開口した。口の中の犬歯が全部見える。そのまま口がふさがるまで数秒かかった。
「あの、立神か!」
「どの、立神?」
「風使いの立神など一件しかない。覇王こと、立神銀次の孫に会えるとは——」
「覇王って……」
じいちゃん、そんな通り名で呼ばれていたのか——秋の頭にはハムスターのころんとしたすがたばかりが浮かぶ。
突然——だれかの携帯が鳴った。
「あ、ごめんなさい! マナーモードにしてなかった」
澪はポシェットからスマホを取り出し、視線を落とす。画面には須賀の名前が表示された。
「須賀さんだ」
「おっさん?」秋はすこしいやな予感を覚える。
「うん」
「出たほうがいいんじゃないか?」
秋が言うと、ジェイドのみなもコクリとうなずいた。自分たちのことは気にせず、電話に出て——ということ。澪は画面に触れて、スマホを耳に当てた。
「はい」
「お、澪さんすまねぇ、いま秋の家にいるんだが——」
早口でしゃべる須賀の声よりも、さらに大きな声で——
「秋はおるか! わしじゃ! いま東子がうちに来とる——告夢じゃ! なんか起こるぞ! はよう帰ってこい!」
銀次の声がスマホのスピーカーを割るいきおいだ。澪は顔をしかめ、スマホを耳から離した。ハンズフリー通話に切り替える。
「じいちゃん、どうゆうこと?」
秋はスマホに声をやった。
「秋、生きとるか!」
「生きてるよ」
「三代の娘がの、告夢を見よったよ」
告夢という単語にいち早く反応したのは、その場にいた悪魔祓いたちだった。睦月と一月はたがいに怪訝な顔を見せ合う。
「告夢って、おいマジかよ。とんでもねぇこと起きんぞ」
辛いガムを噛みながら、リクが言った。
「なんじゃ、そっちにもいっぱいおるみたいじゃの、だれじゃあ?」
「え? あぁ。いっぱい、いる」
「秋! 大丈夫なの?」かすみの声をスマホが発した。
「母さん?」
「もう、心配してるのよ! 倒れたでしょ二回も!」
やっぱりわかるのか、と思った秋は苦い表情を作った。
「きのうの午後くらいに本堂の火が、へなちょこのぺちゃんこになったのよ! ぜったいに倒れたと思って、普段の倍の速さで経を読んだから喉から出血したわよ。まさか澪ちゃんにおんぶしてもらったり、してないわよね?」
かすみに言い詰められた秋の頬は、恥ずかしさのあまり赤くなった。
「電話のひと、おんぶちゃんのママ?」
美鈴の声をスマホのマイクが拾った。
「まぁ! ちっちゃな女の子もいるの?」
「まぁ! おんぶちゃんのママちゃん?」
美鈴はマダムっぽい声を出してみた。
澪は、スマホを美鈴に向けてやった。
「わたちは、ミー・スーズゥよ。あなたのお名前はなんていうの?」
「あら、外国の子なの?」
かすみがいたって真面目なトーンで返すと、いつも冷静な一月ですら、そっぽを向いてなんとか笑いを堪える。
「あ、ちがいます、かすみさん。美鈴って名前の日本人の女の子です。教会で黄泉巫女の修行をしていて」
澪が代わりに説明をした。
「まぁ! そうなの。それじゃ秋、目的の教会は見つけられたのね?」
「して、秋や、帰ってこれんのか?」
「これから、優香さんに祈祷をしてもらわないといけない」
「そうか。いよいよ短刀に力がもどるんじゃな……」銀次の声が低くなった。「まぁ、こっちの心配はいいよ。力強い助っ人がおるからの」
「助っ人?」
スマホはガサガサと物音を鳴らした。別のだれかの手に持たれたような、そんな音——。
「どうぞ、東京で《《彼女と》》ごゆっくり」
「東子!? うちにいるのか?」
秋がまずおどろくと、つづいて澪の表情が凍った。
「銀次さんが言ったでしょう。告夢を見たのは、わたし」
「どんな内容だった?」
「それは言えない。言ったらあなた、電車なんか使わずに空を翔けて、燕みたいに帰ってきそうだもの」
「寺が危ないってことか——」
帰れるのなら、すぐにでも帰りたい。
けれど、短刀の祈祷が終わるまで身動きがとれない。
「母さん。東子。おっさん……。ごめん、寺を頼む」
「おう、心配すんな。討魔分隊にもいちおう声がかかってる」須賀の声。
「わたしを雇うんだから、高くつくわよ」東子の声。「お土産、なかったらあなたを凍らせるから。永遠に」
「澪ちゃん——?」かすみの声。「秋をおねがいしますね」
「しっかり火ノ花に返しますから。大丈夫です!」
やる気が満ちた澪の声がスマホのマイクを抜ける。
「おぉぉおぉ、秋や、いい嫁さ——」
銀次が言いかけた時、スマホのむこうがガサガサと騒がしくなった。
「お、おい銀次さん、それはだめでしょうが——」
あわてる須賀の声がだんだんと遠くなり——
「なんじゃ? ちがうのか? アベックじゃとおもっとったんじゃが」
「アベックは死語ですよ」東子の声もうっすらと聞こえる。
なにはともあれ、安心感のある空気が電話を通して流れてくる。しかし重たい緊張感を抱えながら礼拝堂に来る、ひとりの影が——
「準備できたよ? 秋。短刀、忘れてないよね」
優香のすがたは、いつも着ている純白の修道服ではなく、下が赤、上が白の——巫女装束 だった。それを見た藤次は、目をとろけさせた。
「おぉ、優香さん、なんとお美しい……。十二時の鐘が鳴った途端に魔法がとけて、ツギハギだらけの貧しいおすがたになってしまわないだろうか」
「足もとをよく見なさいよ」栞菜が口をつく。「どうみてもガラスの靴を履いてないでしょうが」
「ああ、ほんとうだ! 優香さんは足袋と草履を履いているではないか! では、かぼちゃの馬車で教会に来たわけでは——ないのか!?」
「いっかいメルヘンから離れろ、メルヘン野郎」栞菜が半目で言った。
「とーじから、メルヘンとったら、ただの野郎?」
美鈴が言うと、睦月を中心に発生した笑いのうずが、礼拝堂をにぎやかにする。
「もう——真剣な空気をただよわせて来たんだけど。ほんと、みんなの笑顔には敵わないわ」肩の緊張を優香は解いた。
「ここの、人たち、おもしろい」
「お——凛……」
シキはおどろいた顔を凛に向けた。
二年以上は見れなかった妹の笑顔がそこにあった。
「凛。大丈夫か?」
こんなときでも、心配の声をかける自分は過保護な兄なんだろうな、と思った。
「大丈夫、ここ、来てよかった」




