ー伍ー
かすみは座布団に正座をし、祭壇の上でゆれる緑色の大きな火を前に、火守りの経を唱えていた。その額には自然と汗が流れる。
かたわらに、銀次がひょこっと座った。しばらくして、かすみの経が止まった。数珠をからめ、合掌している両手の指先に額を当てるようにして、すこしうつむく。
「経をつっかえるなぞ、めずらしいのぉ」
「おじいさん」
「ん?」
「わたしはどうしても、後悔をぬぐえないのです」
「あの日の事は、わしがわるいんじゃよ。妻の体の事もわからんかった」
「いえ……」
かすみは顔を上げた。
祭壇の火を涙目で見つめる。
「わたしがもっと早くに、火守りになる覚悟を決めるべきだったのです」
「血縁でない者が火守りになるのは、並ではないよ。わしも、直之も、経は唱えられたしの」
「わたしは、こわかったのです」
「じゃろうの……。それが普通じゃて」
火守り人になると、その霊力の強さ故か、様々な霊が見えるようになってしまう。霊力の覚醒を恐れ、火守り人を継承すること自体をためらう悪魔祓いの妻がいる——それは、かすみのみならず、日本の各地でよく耳にする話だった。
「無理もない」銀次の優しい口調だ。「悪霊やら、霊魂やら、地縛霊やら。見えるようになるのはだれだってこわいと思うよ」
ハムスターらしく、両手でわしゃわしゃと毛繕いをした。
「いまは……。後悔はあっても、迷いはありません」
かすみは、火守り人としての覚悟から、自身の頭髪をも剃り上げ、神事に身をささげることを誓った。
「わかっとるよ。みんな、わかっとる」
銀次の言葉に自然と涙腺があつくなる。奥歯に力を入れた。目頭に溜まった涙が落ち、若々しい頬に線を描く。
「秋が一番、わかっとる」
悪魔祓いが闘っているとき、火守り人の想いはそのまま、緑色の火に大きな力を与える。その力は、遠く離れた悪魔祓いと疎通する。悪魔と闘う者をより強くする。
「なぁ、かすみや。わしは見たことがないんじゃよ」銀次は、火を見上げて、じっと見つめる。「こんなに大きく、美しく、力強い立神の火を。わしは、見たことがないんじゃ。いま、峠で闘う秋に、おまえの想いと力はしっかりと届いておるよ。大丈夫じゃて」
かすみは、顔を上げた。経を最初から唱えなおす。緑色の火は力強く、ことさらに強く、燃え上がった。
・…………………………・
二本の爪をアスファルトに何度も叩きつけるその様は、さながら、おもちゃを買ってもらえなかった子供のようだ。
ヘルメットなしの頭からは、真っ黒な角が二本。レーサーらしいタイツのような服のせいで全身は見えないが、顔色はわかる。うす紫の、いかにも血色悪そうな顔だ。
コロスだの、アアだのと、カズマはでたらめに叫ぶ。アクセルをふかし、緑色のレース用バイクを走らせる。一直線に向かってくる車体の左側では、硬い爪がアスファルトを削って、火花を散らしている。
一度目よりも速い速度。
一度目とまったく同じ技。
二本の爪は空を切った。
今度は、なににも当たらない。
秋は軽々と跳んで、渾身の二爪を避けてみせた。しかし、バイクは数メートルも進まないうちに、 すぐさま旋回。長い爪をアスファルトに噛ませて、でたらめな方向転換をしてみせる。ブレーキなど、必要なさそうだ。
エンジンを吹かす。
攻撃は左の爪。
相変わらず、左の爪。
それしかない。
ばかの一つ覚えだ。
秋はすでに体を整えている。
中段の構え。
深呼吸。
爪を迎え討つように、秋は走り出す。すれちがいざまに左の爪が振られる、そのタイミングに合わせ、右足を蹴り出してスライディング。低い姿勢のままアスファルトを滑る。
振られた長い爪の下。
通り抜けながら、
刀を上方向に薙ぐ。
爪を下からこじ開けるように。
刀身が当たり、
バイクは大きくバランスを崩した。
長い爪が思わぬ方向にはじかれ、遠心力が生まれる。
車体の制御を失い、悪魔はバイクごと転倒。
緑の塗装がアスファルトに削られる。
カズマは情けない声をもらしながら、慌ててバイクに近づく。横転しているバイクを右手でどこともなく握り、その怪力で車体を投げつける。地面すれすれを舐めるように飛んだ金属の塊は、ただ単に飛んで、ただ単に転がった。
あいつはいない。
なににも当たっていない。
似たような状況を知っている。
真上——
堕ちる彗星の如く、秋が斬りかかる。あわてて、自身の顔を守るように、左手の爪を持ち上げる。空から覆いかぶさるように当てられる華奢で強情な刃。——爪と刀との鍔迫りあい。
カズマは右手で拳を作った。
相手の腹を殴ろうとする。
秋は、二歩ほど、うしろに身を引く。
拳を避けてから、一歩の前進。
振り上げられた刀が、爪を思い切り弾く。
巨腕がふわりと浮く、爪先が天を向く、よろめく。
横断歩道を渡る子供の挙手のよう。
「歩行者優先——、だが、おまえはダメだ」
秋がつぶやく。
軽くジャンプ。
跳びながら刀を横に水平に、爪に強く斬り当てる。
混じり気のない、きれいで一方的な剣戟の音。
長爪は、また折れた。
折れた爪は宙を舞う。
数メートルむこうのアスファルトに突き刺さる。
ただの棒っきれのよう。
腰が砕け、すくんでいるカズマの顎に、ひやりと冷たい物が当たった。刀だ。
「あと、一本」
「オレジャナイ! オレジャ……、ナイ! サイショに、コロソウトしたのはシンジだッ!」