ー伍ー
「なに、なにが起きてるの? お兄ちゃんも、お母さんも、帰ろ?」
凛は声を震わせ、胸の前で片手を握った。
「くそっ! おまえら! うそに流されるな!」
おれは怒鳴った。全員の怪訝な顔が、おれだけに注がれる。犯罪者を見るような視線が肌に刺さる。
「おかしい、溯乃宮司教がそんなことをするはずがない! だれよりも悪魔をうらんでおられる! 甲斐那こそが、うそを述べている! 教皇の聖言を求めるべきだ」
幹部のひとりが声をあげた。幹部の中でそいつだけ、目がうつろではない。あとは——《《だめ》》だ。
「わたしは、溯乃宮司教が悪魔を逃しているところを見ました」
ほかの幹部が言う。
「溯乃宮司教は、悪魔崇拝の書物を隠し持っています」
もうひとり、口を開く。
「わたしも知っています。司教は人間を悪魔に変える力を持っている。それを私欲のために使ったのだ」
また別の者が。
「甲斐那の妻を、あのような姿にしたのは司教だ」
ちがう。
「溯乃宮を罰せよ」
ふざけるな。
「司教とその子供に、神の裁きを!」
おまえらは——
「裁きを!」
あやつられている——
「下せ!」
「やめろ——!」
おれの声はかき消された。何度も、何度も、母さんを責め立てる津波のような怒声が大聖堂に響いた。
おびえる子供たち、状況を飲み込めない大人たちもたしかにいた。だがそのうちの数人ですら、母さんを責める声に同調しだした。目が虚なやつらが母さんを責めるのはもちろんのこと、そうでない奴らが声を上げるのは見るに耐えない光景だった。
「わたしがすべての責を負う!」母さんが声を張ると、あたりは静まり返った。
「ええ——ええ! もう裁きは下ったようなものです。ここは——溯乃宮司教に《《血を捧ぐ思い》》をしていただくということで、一件を落着したいと思う。どうだろう——どうだろうか!」
まるで段取りが整っているかのように、幹部連中はコクリとうなずいた。おなじ角度で、おなじ顔で、おなじうつろな目で。
ただひとり、母さんの無実を訴えた幹部のみが、現実を受け入れられないような顔をしている。まわりの群衆は好き勝手にしゃべりだした。
「凛、志貴、こっちにおいで」
ざわざわと重なる話し声の中でも、母さんの声は耳にハッキリと届いた。修道女の拘束を解かれた凛は、足を震わせながら歩く。途中、甲斐那の舐めるような気味わるい視線を、くぐって——。
「手を握って」おれは母さんの左手を、凛は右手を、それぞれ握った。「いい? イースのメンバーは、だれも頼れないと思って。教会には絶対に近寄らないこと」
「お母さん、いまにも逃げよう」
凛が言うも、母さんは首を横に振った。
「凛、志貴のそばにいて。あなたがいるだけで志貴は風を呼べる。ぜったいに離れないで」
「優香に頼ったらダメなのか?」
「わからない。状況がどう転ぶのか。だれが甲斐那側についているのかも、いまはわからない」
凛の震える手に力が入った。 母さんがその手を強く握り返したのも、わかった。
「さて——さて、あすの晩餐会の準備があります。ここらへんでお開きにしたいと思いますが、いかがでしょうか?」
甲斐那の大声が空気を裂いた。
そして奴はまた、手を二回叩いた。
この音が——大嫌いだ。
「溯乃宮司教。あとで、わたしの部屋へ——」甲斐那が言った。
「帰りなさい。なにがあっても、ふたりで生きるの。いいね?」
胸が焼けて焦げそうなくらい癪にさわるあいつの声を無視して——母さんは、おれたちに言った。
・…………………………・
「おれたちは、そこにいた全員の視線を浴びながら教会を出た。帰路の途中、凛は泣きっぱなしだった。きっと帰ってくる——そう思って母さんの帰りを待っていると、家のガラス窓が割れて悪魔が飛びこんできた。凛を守りながら何匹も倒してゆくと、一台のセダンが猛スピードで家の前に止まった」
車から降りたその男は叫んだ——乗れ! 早く!——
「だれも信用できなくなっていた。でもおれたちは、貴重品を鞄に無理矢理詰めこみ、車に乗った。その車の主が——」
「江田、義成」
優香がセリフをひろった。
「すまない。長く話したらその、腹が減った。カレーをおかわりできるか?」
「あぁ——あぁ、もちろんだ、もちろんだとも。さっきの二倍は持ってこよう!」
藤次エプロンで鼻をかみながら部屋を出た。——しかしなにか思い当たったようにドアの前で振り返る。
「あ、凛ちゃん。カレーは食べずとも、甘いものはどうか? 白雪バニラジェラート、七人の小人風チョコチップ添え——があるのだが食べないか? 紅茶にもよく合うと思うぞ?」
紅茶を飲み干して、空になったカップをテーブルに置いて凛は言った。
「カレーから、食べたい」




