ー肆ー
・…………………………・
「じゃあ、ふたりのうち、勝った方と付き合うってことで!」
金髪の傷んだ長髪に、胸元がはだけたキャミソール。太ももより下は、裸と変わらないホットパンツを履いた女が言う。
「ぜってぇ、まけねぇ」
「まけてろ、カス」
大型のスポーツ用のバイクにまたがったふたりの男がにらみ合う。空気抵抗が低そうな、いかにもレーサーらしい服装。
双方のバイクは、早く走らせろ、と言いたげにニュートラルに入ったギアを空回りさせ、猛々《たけだけ》しくエンジンをうならせる。
「ほんとわぁ……、お金持ってるシンジがいいけどぉ。カズマもかっこいいし。レースに勝ったら本気で惚れちゃうかもぉ」
女がわざとらしく言った。シンジのバイクは派手な黄色。青色のスーツに紫のヘルメットだ。
「こいつはおまえの体が目当てなんだよ」ばかにしたようなシンジの口調。「なぁ、カズマ」
「えーうそぉ、ほんとにぃ?」
露骨なあおりを受けたカズマは、ヘルメットのバイザーを片手で降ろした。なにも言わずに、左手の中指を突き立てて見せる。赤色のレーサースーツにヘルメットも赤。バイクはシンプルに、黒のラインが入った緑色だ。
「あー、カズマ、その指はひどーい」女はクスクスと笑いながら言った。
「顔はいいクセに単純なんだよ。おまえは」シンジがさらにあおってみせる。「昔からそうだもんな。なぁ単細胞。バイク乗るしか脳がないんだよ」
容赦ないあおりを、カズマは黙って聞く。しかしバイザー越しの鋭い眼は、おまえに勝って殺してやる、といっている。
「まぁ、まぁ! とにかく走って勝負、でしょ?」女が楽しそうに言うと、それを聞いた双方はアクセルを深く捻りエンジンを轟かせる。「じゃぁ、いくよー? よーい……」
女がふたりの前方に立ち、片手を大きく上に挙げる。
その三秒後、女は手を素早く下に振り下ろした。
双方のバイクは峠の彼方まで響くであろう、甲高いエンジン音を掻き鳴らし、暗い、夜の峠道に走りだした。
さきの見えない細いカーブを、くねるように駆け抜ける二台のバイク。カーブの度に、膝が地面をこするのではないかと思うほどバイクをかたむける。峠道をすり抜けてゆく。
併走状態のまま、長くゆるやかなストレートの下り坂に差し掛かる。ここぞとばかりにアクセルを吹かすふたり。メーターは百二十キロ付近を指している。すると、右側を走っていたシンジが、カズマのバイクに横付けし、急接近。
流石にあぶないと思ったカズマは、バイクの速度をゆるめようとしたが——間に合わず、シンジは、ライバルの車体を思い切り蹴った。
バランスを崩したカズマのバイクはそのまま滑り込むように横転し、体はバイクから投げ出されて何メートルも転がった。
シンジはバイクの速度をゆるめ、カズマの頭のそばまでゆっくりと近づく。激しい横転の所為で全身のどこが痛いかもわからないほど負傷したカズマのヘルメットを取り上げる。首を強く捻り、折る。軟骨と関節が潰れる音がした。
瞬間——黒い霧の塊のようなものがカズマの身体にかぶさったような気がしたが、シンジはそれを気にも留めない。
「バイクにも乗れなきゃ、なんにも残らねーな。ばーか」
死亡したと思われるカズマの顔に唾を吐く。満足したシンジは、余裕の表情で来た道を折り返す。グローブを指先まで隠れるタイプに変えておいたのは、指紋を残さないため。あくまで、カズマは自損事故だったと言いきるため。
カズマを追い越したんだけど、いつまで経っても追ってこない。どこがで事故ったかも——とでも、ふたりの到着を待ち焦がれている女に説明しようと考えながら、ゆっくりと山道を下る。
すると、うしろから聞こえるはずのないバイクのエンジン音が響いた。空耳かと思ったが、たしかに聞こえる。
「まさか……」
シンジはバイクを止め、後方をよく確認した。バイクは見当たらない。なにか、真上から風が当たったような気がしたが——
「来るわけない。殺したはずだ……」
自分に言い聞かせる。シンジはふたたびアクセルを握る。すると、前方からバイクのヘッドライトがせまってくる。
「他のバイクだろう……。普通に走るか」
邪念を振り払うようにアクセルを握り、バイクを走らせる。前方から来るバイクの左側に三本の棒のようなものが見えた。その棒は、アスファルトを引っ掻きながら、火花を撒き散らしている。
シンジはそのバイクとすれ違った瞬間。
悲鳴を上げた。たったの一瞬の悲鳴だった。
背中には真っ黒な大きいコウモリのような翼。左腕が二本ある。元からあった一本はまだ人間のそれと等しいが、左肩から不自然に生えた新たな巨腕がいやでも目をひく。
巨腕の先、肉塊のように腫れ上がった手から、三本の長刀のような爪を伸ばし。その出来あいの凶器に鮮血をぶらさげながら、エンジン音よりもはっきりと聞こえる奇声を上げながらバイクを走らせるのは、悪魔化したカズマだった。
・…………………………・
「その女は、なかなかふたりが帰ってこないってんで、自分が乗ってきた軽自動車で探しに行ったらしい」シンジのむごたらしい遺体の写真を見ながら、刑事の須賀が慎重に秋に話す。「なぁ、秋…」
「ん?」
「闘えるか」
「うん」
「普通のやつとは、ちがうかも知れん」
「大丈夫だよ」
「本当にか?」
須賀は心底、心配をしている。
命だけは落として欲しくない。
「おまえになにかあったら……」
「大丈夫だって」
「信じてもいいのか?」
「せいぜい中位魔だよ」秋は言いながら、スイカの皮についた赤身をきれいさっぱり食べ尽す。「今晩、行くよ。おれの––––悪魔祓いのにおいがしたら、たぶん出てくるから」
赤身がなくなったスイカの皮がお皿に置かれる。最後のひときれだったようだ。
「そうか……」
刑事としての須賀は、片付くなら早い方がいいと無意識に思ってしまう。職業人としての感覚と、目の前の青少年を守りたい一心とが葛藤を起こす。自分や警察が悪魔を処理できたら、どれほど楽か。
「おっさん。ひとつ頼まれてくれない?」
「なんだ?」
「今晩、峠を通行止めしてほしい」
「それだけでいいのか? 奴が出たら、せめて部隊で包囲するとか」
「悪魔祓い以外は、いらない」
秋の顔は至って真面目だ。
「わかった……。だが、おれだけでも同行させてくれ」
「しにたいの?」
「おれにだって出来ることの一つくらい、あるだろう」須賀が食い下がる。
「ないよ」
「銃でもなにか、できるだろ」
「できない」
「じゃあ、あれだ……、ここの火を持って……」
「悪魔祓い以外が戦えば死ぬだけだ——!」
秋の語調は強かった。
火という単語に強く反応した。
「すまない……」
「いいよ……」
須賀と秋の父は、古くからの親友だった。
親友が遺した子は、わが子同然である。
「ついてきても、いいよ」
「ほんとうか?」
「やつが出たらすぐに離れてくれ。悪魔は、悪魔祓いがいれば、おっさんの事は無視するはず。だから約束してほしい」
「わかった……」
悪魔に関しては、きょうも、なにもできない。
須賀は悔しさを奥歯でかみしめた。
安全反射ベストを着た警官が、須賀の運転する車に敬礼をしながら、通行止めの柵を開けた。
後部座席には、刀を大事そうに抱えた秋がうつむき、目を閉じて、座っている。瞑想をしているようにも見える。秋の服装は、深緑で無地の半袖パーカー。膝丈の白い短パン。靴は、青色のハイカットスニーカーを履いている。
「きょうで、事件から三日経つな。ほんとに出るのか?」
須賀が不思議そうに言った。
「悪魔になったその時は、訳もわからず欲を満たそうとする」眼をつむったま秋は淡々と話す。「その後しばらくは、まだ残ってる人間の心が抵抗するんだよ。おれはどうなっちまったんだ、助けてくれ、助けてくれって。そのときはまだいい。時間が経てば、いずれ、見境がなくなる。人間とあらば、だれだろうが殺してまわるようになる」
「そうゆうもん、か……」
しばらく車を走らせると、長くてゆるやかな下り坂が見えた。
「止めてくれ」秋が言う。
坂道のずっと向こう。ひとつ。
ちいさな丸い点のような明かりが見える。
「あれか?」
「いってくる」
秋は車から降り、刀の鞘から伸びた紐の輪っかを肩に掛けて背中に背負った。
ゆるめの紐で鞘を背負っているので、肩から抜刀することは容易な作りになっている。刀を鞘に納めるのは悪魔に勝った後。それが秋のルールであり、いつまでも腰に鞘があることは、彼いわく「邪魔なだけ」らしい。鞘は戦闘中、主の背中で大人しくしている。
「秋!」須賀が、助手席の窓を開けて外にいる秋を呼ぶ。「死ぬなよ!」
バイクの唸り声がだんだんと近づいてくる。それは明らかに秋を狙い、秋に向かってきていた。
刀を抜く。
呼吸を整える。
左手で手刀の形を作り、その手を胸の前に置いた。ちょうど、胸の前で合掌をするのを片手だけで行なっている姿。片手の合掌だ。
音が近づいてくる。バイクの左側では三本の長い爪がアスファルトをひっ掻き、火花を吐き散らしている。その長さは、秋の持っている刀の倍近くある。鋼の塊すらも切り裂きそうな、漆黒の三本爪だ。
「コロス、コロスゥァァッ!!」
爪が秋に届くらいまで近づく。爪は左手の親指、中指、小指からそれぞれ長く鋭く伸びている。悪魔は秋をめがけてすれちがいざまに、その爪を横に、大きく薙いだ。
爪が自分に当たる瞬間、秋は刀を縦に強く振った。
耳に心地良いくらいの金属音が鳴った。それは軽くて強靭な金属と金属が、綺麗にぶつかり合った音。打ち合った刀と爪は、笛の音のような余韻すらも残した。
バイクの悪魔はあわててブレーキをしてバイクを止める。斬ったはずの相手がいない。肉と骨を裂いた感触もない。
「ア? ア!? アイツ! どこいッタァアッ?」
悪魔は殺気を感じた。
その殺気は悪魔の真上から。
ジリジリと降り注ぐ。
上を向く。
刀を大きく振りかぶる秋が見えた。
秋はおよそ十メートルはあろう高さから、風の力を借りた急降下とともに、渾身の一撃を振り下ろす。悪魔は長爪を持ち上げ、攻撃を防ごうとする。
地面にすさまじい衝撃が走った。アスファルトにひび。爪が一本、その付け根から折れてからんとむなしく音を鳴らす。手から離れ、地面で転がる自分の爪——唖然とした顔を、悪魔ながらに見せる。
秋は離れた場所で、なにもなかったように立っている。
いつの間にそんなところに移動したのだろう。
風の速さでもないと、説明できないじゃないか。
さっきのばか力はなんだ? その細い躰で——。
ぼさぼさ頭のそいつは、左手を胸の前に置いて、片手の合掌。
落ちついている。
こわいくらいに、
落ちついている。
「オマエ、ナンダ……、オマエ、ナンダァァ!」
異常なまでの冷静さを放つ秋に、悪魔は恐怖を抱いた。まるでこれから雑草の一本でも抜こうかという空気感で、あいつは立っている。立っている。立っている……!
「……風や、いま、我が刃となれり」
蒼い瞳がしずかに見開き、これから殺すべき相手を定める。
「オマエもコロサナキャ、コロサナキャ、アイツみたいにいいいいイイィィィィっ!」
不協和音の叫び声。
奇妙にけずれて。
不快にきしって。
重く。
はかなく。
峠の彼方までひびき渡る。