ー玖ー
「優香……」
どのような感情が彼女の胸中に充満しているのか。要は、過去に愛の契りを交わした女性の心情を汲み取ろうと、耳に当てた受話器に全精神を集中させる。
「手紙を、呼んでくれたのか?」
返事はない。
鼻をすする音。
「澪は、きみを見つけられた、ということかい?」
「秋のおかげで、わたしにつながった」
「秋くんが?」
「なんであの子《秋》を東京によこしたのよ。あの子は、都会の空気に触れた途端に死んでしまう田舎の希少生物みたいなものじゃない。死にそうになっていたのよ? 教会の子供たちが見つけていなかったら、どうなっていたか……。ねぇ? 聞いてるの?」
何年かぶりの優香の声。しずかに深呼吸をし、身体の緊張をさきにほぐす——。心を落ち着かせようとする。
「彼にはかわいそうなことをした」
「自覚、あるわけ?」
「彼にとって都会は、荊棘よりも歩きにくい道。その自覚はあるよ」
「ならなんでよこしたのよ」
「彼が危険な道を歩まないため、という触れこみで話すなら——秋くんに霊剥ぎをあきらめさせるには、きみと会うのがいちばん確実だった」
「わたしが終点ってことね。ここよりさきはないから、あきらめなさい、ってか——」
「悪魔祓いの未来、その希望——という触れこみで話すなら——霊剥ぎの実現には、きみの協力が不可欠だ」
双方一〇秒ほどの沈黙。
要がつづける——
「あの日になにが起きたのか、きみはよく知っている」
あの日とは、三代賢二が片腕を失った日のこと。
「過去を蒸し返すの?」
「秋くんには知る権利がある」
「……」
「きみもその場にいた」
「ええ。そうね」
「それに——見ただろう? あの瞳を。綺麗な青を——」
「そうだ。そうだったわね。あの子は特別」
「瑠璃色の瞳のせいで彼はずいぶんと苦労をした。日本人のそれとしては異質だったから。けれど、あの瞳は元来——悪魔祓いが喉から手が出るほど欲しがるものだ。白魔がいる世なら、なおのこと」
優香は天井を見た。照明も点けずに書斎に飛びこんだために、陽が落ちてくるのにしたがって部屋のなかも暗くなってきた。
「風神の瞳」
優香が声を空に投げる。受話器から伝わる空気感で、要がうなずいたことを察した。はからずとも、やはり元妻であることを——不本意ながら実感する。
「なら、あんた、秋を東京によこしたのは、なに? 白魔を見つけさせて根絶やしさせようって?」
要の顔色が険しくなった。
「その希望はすくなからず持っている。だがいまはちがう。そうではない」
「なら、なによ?」
「東京に行く澪を守ってもらうためだ。ぼくは悪魔祓いではない。きみを探す秋くんにとっても、澪は必要だった。ぼく個人の想いとしては、娘をきみに会わせてやりたかった」
火が弱まったように、優香はしずかになる。
「瑠璃色の瞳は——ネズミが持つ〈白魔を隠す能力〉を無視して白魔を見ることができる。そのことに彼はまだ気づいていない。たぶん白魔を見たとしても、《《本能的になんかぜったい斬らないとやばそうなやつ》》、くらいの感覚だろう」
「その程度じゃ、雑踏にまぎれる白魔の王は見抜けないわね」
「だから——そう、瞳が本来の力を得るには、心から信頼できる黄泉巫女とのちぎりが——」
「ちょ、ちょっと待って、ふたりって、もう付きあってんの?」
「いや、ぼくが見るかぎりでは《《まだ》》……」
「はぁ!? だったらなによ、わたしに恋のキューピットでもやれっての!? 澪と秋がキスするまで——」
「いや——、その——」
要は困った。気まずい声を返すしかない。
「てか——白魔の王がほんとうにいるかも、まだわからないじゃない」
「ひとり出たなら、いると思ったほうがいい」要が言った。
「仮に秋の瞳が、王を見つけられるようになったとしてよ? ——倒せると思う?」
——けっきょく、問題はそこだ。
ふたりは古い文言を思い起こす。
そこにおるのは
白き悪魔の源ぞ
ああ、なにぞできぬや
ああ、なにぞつかえぬや
ああ、なにぞきれぬや
せめて、石に隠せば
おびえずくらせようか
過去に——白魔の王は一度封印された。安倍晴明の血を流す一族によって。だが、封印されただけだ。
なにぞ——が並ぶ文言の意味は、できないことはない、使えない異能力はない、その刀に斬れないものはない——つまり倒せるわけがない、という意味だ。
「風だろうが、雷だろうが、火だろうが、白魔の王は使えるはずだ。加え白魔の能力も、となれば、すきがない」
「完全無欠の存在——神殺しに近い話だわ」優香はため息をつく。
「だが白魔の王とて、悪魔の類には変わりない。悪霊が取り憑いて、肉体が動いている存在であるのなら……」
「——ゆいいつ、効果的《《かもしれない》》倒しかたを、秋は無意識に目指しているわけね……」
「ああ。霊剥ぎなら——白魔の王を殺せるかもしれない」
白魔の王から、魂を引きずりだして、翡翠の短刀で斬る。
「そこにいくまでが問題すぎるわよ」
「そうだね……。大人しく針で突かれてくれる、とは思えないよ」
どれだけ強い悪魔祓いが必要なのだろう。
どれだけ多くの悪魔祓いが死ぬのだろう。
ふたりはおなじことを考えて、数秒の途方を過ごした。
「ところで」要が話題を変えようとする。「イースには、刀使いは結構な数いるのかい?」
「イースなんか離反したわよ」
「え!? そうなのかい?」
「《《いろいろ》》あったのよ」
「そうか……。組織のことはよく、わからないが。きみはちゃんと守られているのかい?」
「立花の坊ちゃんと双子の刀使い。彼らのおかげでなんとかやれてる。もちろん巫女も。みんないい子たちよ」
「立花か! あの名刀雷切の?」
「立花本家はちょっと、いろいろあったみたいだけど。いまは——わたしの大事な息子そのものよ。生活は落ちついてる」
「おのずと雷の使い手になるわけだ。すごいな。それで双子の刀使いは? どんな——あ、いや、すまない。つい能力を知りたがるわるいくせが出てしまった…」
「磁芯趨刀って言えば、わかる?」
要は感心した息をもらしながら、身体の向きを変える。戸棚に腰のうしろを押しつけた。螺旋状のコードが引っ張られ、電話機がすこし動いた。
「すごいな……。その能力をふたりが持っているのかい?」
「いまちょうど、依頼で悪魔狩りしてるとこだと思う」
・…………………………・
双子の悪魔祓い——瀬木良一月と睦月は、とある討伐依頼をこなすために横浜——京浜工業地帯という無数の工場が立ち並ぶ地域にいた。
「地味に遠いねーここ。新宿からの距離感どーなってんの? バスと電車の乗り継ぎは、もううんざりー」
道を歩きながら両手を頭のうしろにまわし、軽めの口調でボヤいたのは双子の弟——睦月。胸元に『BANG!』と派手な柄文字がプリントされたアメコミの半袖シャツに、サスペンダーが腰の左右でUの字を作る七分丈カーゴパンツ。足元の黒革のスニーカーには白の☆マークが目立っている。
黒髪のショートアシンメトリーは右に流れ、お気に入りのワックスがよく効いていて束感が際立つ。背中にはラクロスのラケットケースに似た細長のスポーツバッグを背負っている。
「あーあ。校則なのは仕方ないけどさー。この黒髪、ファッションには浮くんだよねー」
睦月は歩きながらボヤキをつづける。
「高校を卒業したら好きな髪色にすればいい。いまは耐えろ」
「《《イツ》》みたいに真面目キャラならいいけどさー。おれっち、残念ながら正反対なのよねー」
「黙っていたら、どっちかわからんとは、よく言われたものだな」
双子の兄、一月は白の無地ワイシャツに、黒のスキニー。茶色い革靴。首から上の、痩せて目鼻立ちがすらっと整った顔面だけが、睦月とおなじかたちをしている。
髪のアシンメトリーは弟と逆に流れて、大人しく潰れている。ワックスはつけておらず、スプレーのみだ。背中には弟とおなじく細長のスポーツバッグ。
幼少のころから、一月? 睦月? どっち? と執拗に言われつづけた結果——ファッションと性格で区別をはっきりさせるという手法に落ちついた。
「ま、ほんとうはこんな格好、好きじゃないんだけどさー」
「なら好きな格好、すればいいだろ?」
「おれが好きなのはイツみたいな格好。でも、イツとおなじだと、どっちかわかんなくなるし」
「たまにはおれが、その格好をすればいいか?」
「そしたら、イツ、その瞬間から睦月、睦月、って呼ばれるよ」
「それもそうだ」
「おれっちはいいんだ。わるくないよ。このほうがたぶんモテるし」
「バレンタインの手紙、おれは一七通だった」
「おれっちは一二通——あれ、おかしいな」
気心の知れた会話で笑いを飛ばしながら、悪魔討伐の依頼主との待ち合わせさき——とある廃工場へと向かっていた。




