ー伍ー
「まちがわずに、一語一句……?」
それどころではないのですが——という言葉が頭に充満するが、それは口から出ようとしない。江田の圧で、喉奥に栓をされているみたいな感覚がする。
「あー、大体でいいよ。覚えてるかぎりで。あんたを尋問しようってんじゃねぇのよ」
しかしこの男、この熱帯の東京を長袖スーツで過ごしているにもかかわらず、汗の一つもかいていない。血は通っているのだろうか。
「え、えと——」澪はアゴに指を当て、なんとか思い出そうとする。「たしか人体実験がなんとか——」
「あとは?」
「えと、巫女の血がどうとか……」
「そう」
あとはなにか言っていたか、と考えていると、江田のほうから訊いてきた。
「雨に関しては?」
「え?」そういえば、言っていたな……。「雨が降ることがあるから、お気をつけて——と言われた気がします」
江田はうなずき、目線を澪から外した。
「あんた、手、出して。手のひら上で」
「え、えぇ? な、なぜ?」
手錠でもかけられるのか、と澪は身構えた。
「いいから」
おそるおそる右手を差し出す。江田は澪の右手に一万円札を乗せた。あまりに素早く一瞬の出来事だった。動揺した澪の足さきが、江田の革靴に当たった。
「なんす、え!? そんなもらえません!」
澪は返そうとしたが、長袖のスーツはすでに背を向けて歩き出している。
「情報料。あとその教会《《は》》安全だからー」
背中を向けたまま、右手を、そんじゃ……、と言いたげにダラっと持ち上げて江田は街へ消えていく。
頭から湯気が出ているかも——澪はそう思った。いろいろな出来事が重なり、脳内で整理をつけられそうもない。ひとまずお金を財布にしまう。江田からもらったお金だとわかるように、財布の札入れにはしまわず、カードポケットに入れた。
「行かないと……」
澪は大扉の前に立った。
「ん? どちら様ですか?」
不意に、右側から声をかけられる。
「はふぃっ!」
澪は首をカチカチに緊張させながら声の主を見た。視界に映ったのは女の子みたいな男の子だった。男の子は大きな竹ぼうきを持っている。掃除していたのだろうか。
「あ、え、ええと」
しどろもどろ、目が泳ぐ。
なにを言おうとしたか。
なにを訊こうとしたか。
どんな言葉を準備していたか。
よくわからない。
混乱。
緊張。
(なぜ秋をさらったの!?)
ちがう。
(こ、こら! 秋を返しなさい!)
ちがう。
(秋は、わたしのものだ!)
別の意味で、ちがう。
「だ、大丈夫ですか?」
「あ、いや、えと」
——どうしよう、いざとなるとなにも言えない……!
——けど、わるい人には見えない……。
「御用がおありなら主に通しますけど…」
「あ、は、はい、おねがいしまぃします…」
「さしつかえなかったら、お名前をうかがっても?」
「柊木澪《《ですした》》––––(あ、どうしよ、偽名にするんだった。しかも《《ですした》》ってなによ)」
「ちょっと待っててくださいね」
ルイは教会に入った。片方だけ開いた扉から、礼拝堂が見える。左右に規則正しく並んだ木製のベンチを見た澪は、この長椅子の配置は、どの教会もおなじだな、と思う。
ふと、ちいさな女の子が物陰から半身だけ晒し、こっちをチラッと見てから逃げるようにどこかに行った。
「あんなにちいさい子もいるのか……」ちょっと安心感。
目を閉じる。
深呼吸をする。
深く。
一回、二回。
すこし頭がすっきりした。
次に教会の人が現れたら率直に訊く決心をした。ここに運ばれた男の子、わたしの連れなんです——そう言おうと思った。
しかし長椅子の間を通り、足早で現れた人物を見た途端、秋の名前が脳から吹っ飛んでしまうくらいの衝撃を受けてしまう。
「み、澪、なの?」
うそ。
「澪だよね?」
見たことある。
「澪……、わかる? わたし、わたしのことわかる?」
忘れもしない。
わたしにそっくりの顔。
「澪、みおっ!」
抱きしめられた。
目が熱くなる。
視界が霞む。
躰が強張る。
うれしい?
かなしい?
わからない。
そうだ。
この人に会ったらぶつけてやろうと思っていた言葉。
思い出して。
おねがい思い出して、わたし。
「やめてっ!」
突き放してしまった。
痛かったかな?
いや。
わたしの方が痛かった。
ずっと。
ずっと。
ずっと––––
お母さんがいない、いないことが辛かった。
友達にはお母さんがいた。
授業参観。
運動会。
文化祭。
入学式。
卒業式。
誕生日。
いつも。
いつも。
いつも——!
あなたはいなかった。
いて欲しい時に。
あなたは——いなかった。
「どうしてわたしを置いていなくなったの!? ずっと待ってた! あんたが帰ってくるのを! 毎日毎日! きょうかな? きょうかな? って待ってた。なんでわたしが見つけるんだよ! なんであんたから会いに来ないんだよ! 母は死んでしまったと言われた方がよっぽど……、そのほうがよっぽどよかった!」
背を向けてしまった。
もう、いいや。
秋のことも、いい。
疲れちゃった。
この人がいるなら。
秋も火ノ花町に帰れるでしょ。
知らない。
なんでこんな目に。
わたしはなにもしていない。
わたしはなにもできない。
躰が動かなくなった。
抱きしめられた。
もういいって。
いいのに。
——でも覚えている。
この人のにおい。
お母さんのにおい。
「––––澪っ!?」
秋の声だ。
もう、なんなのみんなして。
わたしの名前を呼ぶ。
うれしいのに。
うれしくない。
うれしくないって思おうとしてる。
なんだか変な気持ち。
涙ばっかり流れて。
こんな顔、恥ずかしくて見せらんない。




