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刀闘記  作者: 燈海 空
疑心六感 篇
42/97

ー伍ー

 

「まちがわずに、一語一句いちごいっく……?」


 それどころではないのですが——という言葉が頭に充満するが、それは口から出ようとしない。江田の圧で、喉奥に栓をされているみたいな感覚がする。


「あー、大体でいいよ。覚えてるかぎりで。あんたを尋問じんもんしようってんじゃねぇのよ」


 しかしこの男、この熱帯ねったい東京とうきょう長袖ながそでスーツで過ごしているにもかかわらず、汗の一つもかいていない。血は通っているのだろうか。


「え、えと——」みおはアゴに指を当て、なんとか思い出そうとする。「たしか人体実験がなんとか——」

「あとは?」

「えと、巫女の血がどうとか……」

「そう」


 あとはなにか言っていたか、と考えていると、江田のほうから訊いてきた。


「雨に関しては?」

「え?」そういえば、言っていたな……。「雨が降ることがあるから、お気をつけて——と言われた気がします」


 江田はうなずき、目線めせんを澪から外した。


「あんた、手、出して。手のひら上で」

「え、えぇ? な、なぜ?」


 手錠でもかけられるのか、と澪は身構えた。


「いいから」


 おそるおそる右手を差し出す。江田は澪の右手に一万円札いちまんえんさつを乗せた。あまりに素早すばや一瞬いっしゅんの出来事だった。動揺した澪の足さきが、江田の革靴に当たった。


「なんす、え!? そんなもらえません!」


 澪は返そうとしたが、長袖のスーツはすでに背を向けて歩き出している。


情報料じょうほうりょう。あとその教会《《は》》安全だからー」


 背中を向けたまま、右手を、そんじゃ……、と言いたげにダラっと持ち上げて江田は街へ消えていく。


 頭から湯気ゆげが出ているかも——澪はそう思った。いろいろな出来事が重なり、脳内のうないで整理をつけられそうもない。ひとまずお金を財布さいふにしまう。江田からもらったお金だとわかるように、財布の札入さついれにはしまわず、カードポケットに入れた。


「行かないと……」


 澪は大扉おおとびらの前に立った。


「ん? どちら様ですか?」


 不意ふいに、右側から声をかけられる。


「はふぃっ!」


 澪は首をカチカチに緊張きんちょうさせながら声の主を見た。視界に映ったのは女の子みたいな男の子だった。男の子は大きな竹ぼうきを持っている。掃除していたのだろうか。


「あ、え、ええと」


 しどろもどろ、目が泳ぐ。

 なにを言おうとしたか。

 なにをこうとしたか。

 どんな言葉を準備していたか。

 よくわからない。

 混乱こんらん

 緊張きんちょう


(なぜしゅうをさらったの!?)


 ちがう。


(こ、こら! しゅうを返しなさい!)


 ちがう。


しゅうは、わたしのものだ!)


 別の意味で、ちがう。


「だ、大丈夫ですか?」

「あ、いや、えと」


 ——どうしよう、いざとなるとなにも言えない……! 

 ——けど、わるい人には見えない……。


御用ごようがおありならあるじに通しますけど…」

「あ、は、はい、おねがいしまぃします…」

「さしつかえなかったら、お名前をうかがっても?」

柊木ひいらぎみお《《ですした》》––––(あ、どうしよ、偽名ぎめいにするんだった。しかも《《ですした》》ってなによ)」


「ちょっと待っててくださいね」


 ルイは教会に入った。片方だけ開いた扉から、礼拝堂が見える。左右に規則正きそくただしく並んだ木製のベンチを見た澪は、この長椅子ながいすの配置は、どの教会もおなじだな、と思う。


 ふと、ちいさな女の子が物陰から半身はんみだけさらし、こっちをチラッと見てから逃げるようにどこかに行った。


「あんなにちいさい子もいるのか……」ちょっと安心感。


 目を閉じる。

 深呼吸をする。

 深く。

 一回、二回。

 すこし頭がすっきりした。


 次に教会の人が現れたら率直そっちょくく決心をした。ここに運ばれた男の子、わたしの連れなんです——そう言おうと思った。


 しかし長椅子ながいすあいだを通り、足早はやあしで現れた人物を見た途端とたん、秋の名前が脳から吹っ飛んでしまうくらいの衝撃を受けてしまう。


「み、澪、なの?」


 うそ。


「澪だよね?」


 見たことある。


「澪……、わかる? わたし、わたしのことわかる?」


 忘れもしない。

 わたしにそっくりの顔。


「澪、みおっ!」


 抱きしめられた。

 目があつくなる。

 視界がかすむ。

 躰が強張こわばる。

 うれしい?

 かなしい?

 わからない。

 そうだ。

 この人に会ったらぶつけてやろうと思っていた言葉。

 思い出して。

 おねがい思い出して、わたし。


「やめてっ!」


 突きはなしてしまった。

 痛かったかな?

 いや。

 わたしの方が痛かった。

 ずっと。

 ずっと。

 ずっと––––

 お母さんがいない、いないことが辛かった。

 友達にはお母さんがいた。

 授業参観じゅぎょうさんかん

 運動会。

 文化祭。

 入学式。

 卒業式。

 誕生日。

 いつも。

 いつも。

 いつも——!

 あなたはいなかった。

 いて欲しい時に。

 あなたは——いなかった。


「どうしてわたしを置いていなくなったの!? ずっと待ってた! あんたが帰ってくるのを! 毎日毎日! きょうかな? きょうかな? って待ってた。なんでわたしが見つけるんだよ! なんであんたから会いに来ないんだよ! 母は死んでしまったと言われた方がよっぽど……、そのほうがよっぽどよかった!」


 背を向けてしまった。

 もう、いいや。

 秋のことも、いい。

 疲れちゃった。

 この人がいるなら。

 秋も花町ばなちょうに帰れるでしょ。

 知らない。

 なんでこんな目に。

 わたしはなにもしていない。

 わたしはなにもできない。


 躰が動かなくなった。

 抱きしめられた。

 もういいって。

 いいのに。


 ——でも覚えている。

 この人のにおい。

 お母さんのにおい。


「––––澪っ!?」


 秋の声だ。

 もう、なんなのみんなして。

 わたしの名前を呼ぶ。

 うれしいのに。

 うれしくない。

 うれしくないって思おうとしてる。

 なんだか変な気持ち。

 涙ばっかり流れて。

 こんな顔、恥ずかしくて見せらんない。



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