ー拾肆ー
「あっつい、ダメだ秋、そこの喫茶店入ろ?」
ハンカチで汗を拭いながら澪が言った。時間は正午。ふたりは朝にホテルを出発してから七、八軒の教会を訪問してまわった。「E•A•E•C、知っていますか?」と言った秋に対し、キリストの修道者たちは、「はて…?なんのことでしょう?」と口々に言うばかりで、いまのところ収穫はない。
新宿の街はギラギラと照りつける太陽に焼かれ、気温は30℃を軽く越していた。
「朝の涼しさ、どこ行ったんだ……」
そう言った秋の目に、《ひたい》から流れた汗が滲みる。喫茶店のドアを押すと、カラカラ……と来客を知らせる鐘が鳴った。この後に、いらっしゃいませ、と言われるのが定石のはずだが、店員があまりに多忙のためか、その声は聞こえない。
店は、すこし大きめのビルの一階にあった。店内に入ってすぐの左側に注文を受けるためのカウンターがあり、右を向くとやけに広々とした空間に、四人席の四角いテーブルと椅子がいくつも置かれている。
歩いてきた歩道がよく見えるガラス張りの壁、その無色透明の壁にぴったりとくっつくようにして、一五人分ほどのカウンター席が横にずらっと並んでいる。雰囲気からして、大手のチェーンのコーヒーショップらしい。
見渡すかぎり、どの席も満席。昼休みの時間内で、上司の悪口をマシンガンの銃撃戦みたいに言い合ってスレトスの発散をするOLだちや、リンゴのマークが光るノートパソコンに指を叩きつけるナルシストっぽい男達やらで溢れている。
「わ、座るとこあるかな。お昼どきだもんね」
そう言った澪の前には、すでに二〇人ほどが列を作っており、レジの前まで一直線に並んでいる。歩くのがめんどくさくなったアリの行列みたいだと、秋は思った。
「とりあえず、並んどこっか。外にいるよりはいいし……」澪はうしろを見た。「あ、やば、秋、まえ、進んで」
ふたりが立っていたのは、入り口のドアのすぐそば。ドアを挟んだ外側には、いつの間にか3人ほどの行列ができている。ふたりが入り口を塞ぐようにして立っていたものだから、店内に入れず、不機嫌そうな顔をしながら、太陽の下で立っている。
おまえらがそこにいるせいでなかに入れないんだよ……、と内心思っていることは火を見るより明らかだ。
「秋、大丈夫?」
澪が秋の顔をのぞいた。この世の終わりみたいな顔だ。すると突然——店内に風が吹いた。それは、エアコンの風とは程遠い強風。
テーブル上の紙ナプキンが落ち葉みたいに飛ぶ。夏用のツバが広い麦わら帽子を被ったマダムっぽい女性が「きゃ!」と、帽子が飛ばないように手で押さえた。レジの店員が客に渡そうとしていたレシートが、その手から吹っ飛びどこかへ消えた。
「おーい! 窓あいてんじゃねぇのか!?」
ギャンブルと酒が好きそうな中年男性が椅子に座りながら怒鳴った。その男性の目の前には、メニューの中で一番安そうなアイスコーヒーが置かれている。
「申し訳ございません! 確認してまいります!」緑のエプロンを着た店員が大きな声で言った。
澪の両手は、立ちながら気を失っているような顔の秋の右手を強く握っていた。
いまの風は、秋の仕業だ。極度のストレス状態を回避するための能力の暴走——。
「秋! だめ! いまはだめ!」
澪は吠える犬をさとすように、それでいてなるべくちいさな声で言った。
(もう、わたし保護者じゃん……)
想像していたのとちがう。澪は、そう思わずにいられなかった。秋と東京デートができる——そう思ってウキウキしていた何日かまえの自分を、いまはひっぱたいてやりたい気分だ。
「いらっしゃいませー! ご注文はお決まりですかー?」
店員の言い慣れた感あふれる声が澪を呼んだ。行列はいつの間にか進んでおり、いつの間にか澪が先頭になっていたらしい。
ポシェットから自分の財布を取り出し、レジに置かれたメニューを見ながら、目に飛び込んだ飲み物を適当にふたつ注文した。外が暑くて店内に逃げ込んできただけなので、特別、何かが飲みたいわけじゃなかった。
「はい、おふたつで1380円になりまーす!」
(たかっ!)
お金を支払い、商品を受け取るカウンターに移動してからしばらく待った。店員が黄色のグラデーションがあざやかな飲み物をふたつ作り終えると、緑色の太いストローをフタに差し込んでから澪に差し出した。澪はそれを両手で持ち、店内を見渡す。
「うーん、座れな——あそこ! 空いた!」
ちょうどふたり組のOLが席を立った。
歩道に面したカウンター席。ガラス張りの壁越しから、日傘をさして歩く婦人やタオルで汗を拭いながら足早に歩くサラリーマンなどが見える席。
逆を言えば、歩道を歩く人達から、水槽の中にいる魚を見るような視線を浴びなければいけない席でもある。
しかしこの際、どうでもいい。
「ふー、とりあえずよかった」
ひとまずここで休める。
そう思えるだけでも、いくぶん幸せ。
澪はストローを咥え、ドリンクを無表情で吸った。本来なら軽く混ぜてから飲んだ方が美味しいのだが、そんなことは最早どうでもよかった。そのとなりで、秋はドリンクに見向きもせず、ただただ放心している。
「ねぇ、飲まないの?」
澪の抑揚がない声。
「ん? あぁ」
秋は、いま初めてドリンクに気づいた。
「東京、こんななんだ」
理想と現実との落差。
「見つからないのかな」秋が言った。
イライラしている澪は、ふんと鼻から強めの息を吐いた。
「まだ七、八軒でしょ。効率ばっかり求めて焦って動けば、また倒れるよ? もしその探してる人、新宿にいなかったら、もうすこし範囲を広げることも考えないと」
澪が口から離したストローに前歯の歯形がついている。察しがいい男なら、その歯形を一目すればイライラを感じ取れるだろう。察しがいい男ならば——。
「東子ならこの場合、どう動くんだろ。氷の力なら、外でも涼しかったりするのか」
なにかがブチっ、とちぎれる音が聞こえた気がした。
その音は実際には鳴っていない。
だがたしかに感じ取れる音。
澪がドリンクを持った両手を力任せにテーブルに置く。鈍い音がした。横に座るサラリーマンがびくっ、と一瞬怯んだ。
ちらりと澪の手を見ると、中身が氷だけになったプラスチックカップが丸かじりされたリンゴの芯みたいに潰れている。サラリーマンは、パソコンをすこしだけ離して置いた。
「ねぇ。東子さんのこと、抱きしめたりしたの?」
「いや……」秋は否定をする。
(この期に及んで、気を遣っているつもり?)
プラスチックカップがさらに潰れた。
「隠さなくていいのに」澪が言う。
「ごめん」あれ、おれ、なんで謝ってるんだ?「あいつ、ひとりなんだ……。兄貴とか、お母さんとか、いなくて」
「それで?」
「すこしでも、さみしくないように、と思って……」
「わたしは?」
「おまえは——大丈夫そう……」
沈黙。
「もういい」
澪は席を立ち、ズカズカと人混みを押しやって歩き出した。カップを乱暴にゴミ箱の中に捨てると、そのまま店の出入り口へ。レジの行列——その脇をすり抜けるようにして、去ってゆく。
秋はこの状況に対応する術を知らず、座ったまま半身だけ振り向き、目で追っただけ。
「み——!」
となりに座っているサラリーマンは、やっちゃったねこいつ、と言いたげな目で秋を一瞥してから人生の先輩を気取ってニヤついた。
まだ手をつけていないドリンクのカップの外側は水滴でびしょびしょに濡れている。だれかさんの心に滴る冷や汗みたいだ。
新宿の賑やかなカフェ。
財布もスマホも持たずに。
澪もいない状態で。
この大都会を、どう泳げばいいのだろうか。
秋の心には、自分の鈍感さを恨む余裕すらなかった。




