ー拾弍ー
「うん、ちょっと倒れちゃって……」
澪はホテルのロビーで電話をしている。相手は要だ。
「だ、大丈夫なのかい?」
「さっき、ホテルの人が救急車を呼んでくれて。病院に運ばれるかと思ったんだけど。軽い熱中症だから、ホテルで休んだほうがいいってなって。いま、秋、部屋で頭を冷やしてる」
時間は午後三時。澪が座るソファの前を、大荷物を抱えた宿泊客達が何人も通り過ぎている。ちょうど、チェックインの時間だ。
「ほんとうはきょう、荷物を置いたらすこしでも街を見てまわろうと思ってたんだけど。きょうは、無理かな」
「急ぐ旅じゃない。もう一日、連泊を延長してゆっくり動きなさい」
「それだとお金がかかっちゃう…」
「お金のことはいいよ。ハードスケジュールで動いて、今度は澪が倒れでもしたら、それこそ大事だよ?」
「うん…、そう…だね。余裕をもって動く。ありがとう。お父さん」
「とにかくすこしでも、どちらかの体調が悪くなったら、その日は動くのをやめなさい。東京の暑さは田舎のそれとは別物だ。体が慣れていない秋くんには、とくに辛いはずだ
澪はスマホを耳に当てながらホテルの入り口を見た。あのガラスの自動ドアの一歩さきは、灼熱の地獄。秋を連れて動くなら、早朝がいいかもしれない。
「あ、そうだ。救急隊の人がね、熱中症と、心労もあるかもしれません、って言ってた。てかほとんど心労だと思う」
「彼にとっては電車に乗るだけでも相当な負担だったろうね……。きょうはゆっくり休みなさい。あまりホテルから遠くに行くんじゃないよ? いいね?」
「大丈夫。きょうは動かない」
「それじゃ、かすみさんのほうには澪から連絡してくれるかい? 現場の声のほうが、安心できると思うし」
「うん。これからする。じゃまたね、お父さん」
「気をつけるんだよ」
スマホに映る赤い丸のマークをタップして、要との会話を終えた。そのまま立神家の電話番号を探して発信のマークに触れた。しばらくして、一定のリズムを刻む音がプツッと止まり、澪は電話の相手よりもさきに口を開いた。
「あ、もしもし、柊木です、澪です」
「おー! 要の娘か! なした! 秋、生きとるか?」
(秋のおじいちゃん!?)
「あ、え、おじいさん、ですか!?」
「なんじゃ、わしが電話にでたらおかしいか?」
(ハムスターがどうやって受話器を持ってるの?)
「わしにじゃって〝はんずふーりー〟のボタンくらい押せるよ?」
「あ、あぁ、そうですよね、なるほど」
「で、秋、倒れよったな?」
見透かしたように言いだす。
「——わかるんですか?」
「かすみがの。急に火が弱くなったと騒いだのでの。いま、火の面倒を見ておる」
「さすが、伝わるんですね」
「都会の土に足をつけただけで倒れるとはのぉ。さきが思いやられるわい。ああ、都会には土は見えんか」
「きょうはこれ以上、動きまわれないので……。予定を延長しようと思うんです」
「おぉぉおぉ。わかったよ、かすみにゆうておく」
「ありがとうございます。おねがいします」
「して、柊木の娘や」
「は、はい?」
「ちょっと、試してみ?」
「なに、をですか?」
「良いか」
銀次は、なにかの作法らしきものを電話越しに伝えた。
「……? やって……、みます」
「そんじゃぁの。モジャモジャ頭のちびを頼んだよ」
部屋自体はそれぞれに二部屋とっていたが、事情が事情なので、澪は秋の部屋の鍵を持ち出していた。ノックをしても返事がないので、ドアノブに鍵を差しこみ、部屋のドアを開けた。
「秋? 大丈夫ー?」
冷房が効いた薄暗い部屋のベッドで、氷枕に頭を冷やされながら、秋はスヤスヤと寝ている。
「爆睡戦隊、ネムルンジャー…」
どうせ聞いていないからと、わけのわからない事を言った自分の口がとても恥ずかしくなった。鏡台の前の椅子を動かしてベッドの横につけてから、それに座った。
(いまだったらチューでき……)
「ばかばかばか、なに考えてるの」
邪念をはらうように首をブンブンと横に振る。
「えと、なんだっけ。おじいちゃんが言ってたやつ……」
澪は、銀次の言った作法を頭の中で再生した。
「まず、空中に△を描く」
指で宙をなぞる。
「次に両手を合掌…」
澪は手を合わせた。
「唱える、ええと——ヒノネ・キミョウ」
先ほど澪が宙に描いた△。それが綺麗な翡翠色に煌って浮き出てきた。さながら、ライブなどで使うペンライトを三つ合わせて、△にしたかのよう。
「な、なにゃにこれ!」
驚き、言葉が乱れる。
目の前に浮き出た△の翡翠色の光。
それを、指で触れてみる。
「わ、触れない。ひかってるだけだ…」
澪の指は△の光を通り抜けただけ。しかし、光に指が触れた瞬間、心なしか指が癒された——ような感覚を覚えた。
「え、えと、そうだ、次」
作法のつづきを思い出して、それを実践する。
「描いた△の中心を、下から指で、縦にまっすぐ斬る」
リン——鈴の音のような音が聞こえた。それは明らかに△の光が発した音。△はそのまま、吸いこまれるように秋の胸にやんわりと乗って消えてゆく。
「う––––」
秋が声を発した。
「秋? わたし、なんかしちゃった! ごめん!」
秋はむくっと上体を起こした。ボサボサの頭と眠そうな半目。間の抜けた顔が横を向く。
「ここ、どこ?」
「ホテルだよ? 覚えていない?」
「新幹線を降りてからの記憶が——ない」
「そうなの?」
「うん」
「あれから電車を乗り換えて、新宿駅に降りてからすこし迷ったけど、なんとかホテルに来たんだよ?」
「そうなのか?」
「ほんとうに、覚えてないの?」
「うん、新幹線からさっぱり……あ」
秋はなにかを思い出した。
「澪、新幹線でおれの手、握ったよな?」
「うん、握った」
「あのときさ、一瞬だけ見えた」
「ん? なにが?」
「おまえの左手が、緑色に光った——気がする」
「え……」
ふたりが新幹線を降りたとき、秋は既に失神する一歩手前だった。しかし澪のもつ癒しの力が手から伝わり、崩れそうな秋をギリギリで支えていた。
そしてホテルに着いたころ。澪がホッと安心をした瞬間、癒しの力は、ピタリと止んだ。ので——秋は床に倒れることになった。
「わたしって、宇宙人?」
「目、でかいし、そうかも」
「おい」




