ー拾ー
夜の歌舞伎町、歓楽街。エアコンの室外機が数個、設置されているだけのだだっ広いビルの屋上にたたずむひとりの男、三代西威。
西威は手摺りに両腕をあずける。十数メートル下の艶やかなネオンや淫らな看板がところせましとひしめき合う街の通りを見下す。足早に行き交う人の群れをただ、ながめている。
「欲が溢れている。人間こそが真の悪魔だって、ね」
黒い半袖のワイシャツに赤いスキニー。腰には二本の刀。その表情はどこか、下等な生き物を見下すものに見える。
うしろから足音。
金属の階段を登る革靴の音。
足音の主は屋上にたどり着いた。
「一〇〇万ドルの夜景は、ここにはねぇぞ」
タバコの吸いすぎか、ハスキーで漢らしい声。
西威は振り返りもおどろきもせず、「この街の欲をかき集めれば、一〇〇万ドルじゃ足りませんよ。先輩」
先輩と呼ばれた男——雑賀仁は、西威とおなじく屋上の手摺りまで歩く。漆黒のノースリーブフード付きコートに赤いワイシャツ、討魔分隊の制服の腰には、一振りの刀とソードオフショットガン。
並んで立つふたりの間には、三メートルほどの距離が空いている。仲の良い友人ならば、もうすこし近くで話すはず。
「どうだ、白魔になるってのは」
仁が尋ねる。
タバコは吸っていない。
「いいもんですよ。腹も減らない、睡眠もいらない、女にも興味が湧かない。人間もこれくらい無欲なら、世の中もすこしはマシになりそうですよ」西威は口角を持ち上げて応えた。そのままわるびれる様子もなく、「ぼく、死んだことになってます?」
「特異型死亡認定、その辺の悪魔とおなじ扱いだわ。安心しろ」
「そうですか。なら、よかった」
「おまえがまるで、自分が白魔になるとわかってて掛けたご立派な死亡保険のおかげで当分、おまえの家族は金に困らねーわな」
「そこまでの予見はできませんよ、さすがに。東子は、申請を出しましたか?」
「このあいだ、高校卒業後の入隊希望を受理した」
「そっかー! 嬉しい、嬉しいな! 東子も討魔分隊に入るのかぁ。鼻が高いよ」
西威は嬉しそうに背伸びをした。
そのまま視線を空に移す。
黄金色の満月が見えた。
夜風を味わうように深呼吸。
真っ白な髪の毛が生温いビル風に吹かれる。
髪はすこしだけ靡いた。
「で、こんなところでだれを待ってる」
仁は、左にいる西威の方を向いた。右手は、刀に軽く添えられた。刀の柄頭にぶら下がっている大粒の数珠がちゃり、とわずかに鳴った。
「強いて言えばネズミかな」
「やっぱりいるのか」
「十二支の始まり。白魔の頂点。そりゃいますよ。ぼくが生き証人だ」
「世も末だわな」
「すこしはシゲキがないと。人間だってつまらないでしょう? つまらない。ほんとうに。金だ、女だ、物だ、地位だ——って。地球がぶっこわれていくのもおかまいなしに、人間は自分がいい気分になりたいだけ。暴走する資本主義のしわよせが来ていることは、すぐそこのスーパーにでも行けばわかる。キャベツが一個四〇〇円。そんな時代が来ますよ、そのうち」
くすりと笑いながら、西威は人差し指で手摺りをトントン叩く。
「おまえはだれに白魔の力をもらった」
「それは言えませんよ先輩。すいません」
「ネズミはどこにいる?」
「それも言えません」
「白魔になったのはおまえの意思か?」
「そうです。ぼくには素養があったみたいですね」
「そうか」
仁は左手でショットガンを抜いた。
左にいる西威の顔にまっすぐ向けた。
迷わず発砲。
散弾銃の薬莢が弾ける音。
ビル下を歩く通行人は上を見上げた。
「ヤクザの抗争じゃない?」
群衆のなかでだれかが笑いながら言った。
ショットガンから放たれ乱れ飛ぶ黒い弾。
10数発の散弾。
西威の右頬を確実にえぐるコースを飛んだ。
銃弾はしかし二〇センチ手前で静止。
空中でピタリと止まる散弾。
「先輩、こんなところで銃を撃ったら、警察が来ますよ?」
相変わらず夜景を見たまま、西威がすこし力を抜く。空中で止まっていた銃弾たちは、ぱらぱらと無力に––––コンクリートの床に落ちた。
「残念ながら、おれがその警察だわ」
「その辺のおまわりさんは、討魔分隊なんて知りませんよ」
「たしかに言えてるわな」
仁は腰の刀を抜きながら、距離を縮める。体幹の回転を乗せた袈裟斬りを振った。瞬間——西威は右手をそちらに伸ばす。刀はあと数ミリの距離で静止。
ピタリと止まる刀身には半透明の蛇が絡み蠢いている。蛇は、すこしずつ仁の右手へと這って近づく。指先から腕への感覚が——だんだんとなくなってゆく。
「氷の力はどこ行った」
「こっちのほうが、ぼく好みでして」
「——針根」
仁は術を唱えると、さきほど床に散らばった散弾たちが尖った木の根に変貌した。
長く鋭く伸びた木根たちは触手のように蠢きながら、それでいて的確に、西威の体に穴を開けるという明確な意思に従い、足元から次々とおそう。
「先輩の時間差攻撃。やっかいだなぁ」
足元から一本づつ、順を追って飛んでくる鋭い根——西威はバックステップで避ける。
尖った根は何度も頬をかすった。
西威は右手のひらを開く。
数本の根が、西威の手前でピタリと止まった。
半透明の蛇が根の尖端にそれぞれ噛みついて、攻撃を止めている。
「ここには土がない、木は育ちませんよ!」西威は言いながら左手を持ち上げる。「時返シ」
術を唱えると。木の根は一度、逆再生したように、シュルシュルと引っ込み種にもどった。
ふたたび出現した木の根は、迷わずに仁を襲った。自分にされたことを、そのままやり返すかのような西威の技。
仁は、迫りくる根を躱しながら次々と斬り伏せる。
「ちっ……、飛び道具はダメか」
ショットガンを片手でクルッとまわし、リロード。
つづいて自身の足元に発砲——コンクリートに埋まる銃弾たち。
蜂の巣みたいな銃痕を片足で踏む。
植物の蔓が仁の両足に絡みついた。その蔓はとてつもない速さで床を這い、西威に向かってまっすぐ、突進するいきおいで伸びる。
蔓に身体を高速で運ばれ、相手を一刀のもとに切り捨てる——その気迫が俊速で迫る。
(先輩が正面から猪みたいに攻撃するわけない、なにかくる)
案の定、仁は右の脇の下に銃身をまわし、自分の背後に向けて発砲。
銃口からは数本の細い木の根が飛び出した。仁の背後で、翼のように大きく広がり、すぐに正面へと方向転換。
左右からは鋭い根。
正面からは、仁とその刀。
前、右、左の三方向から、一度に攻撃を受けようとする西威。
左右から襲う根は、蛇に受け止めさせる。
刀は——
「きょうは抜きたくなかったな……!」
重く軋り合う剣戟の音。
パトカーのサイレンもわずかに聞こえてきた。
「先輩、タイホされちゃいますよ? 銃刀法違反だ」
「刀を抜いて言うセリフか? 特異型死亡者」
双方、片手と片手の鍔迫り合い。
「やっぱり、すごいや! 先輩の能力はすごいや!」
「うるせぇ、黙って闘え! バカ後輩が!」
数秒の鍔迫り合いの後、西威の真うしろからビル間を蹴って飛ぶ足音がした。三〇メートルの距離を五、六歩で飛ぶほどの高速。
ひとりの女性らしき影が一瞬、見えた。目にも止まらぬ速さで西威の背後まで近づくと、彼女は即座に居合斬りを放つ。
「せんぱいに何してんのよゲスへびハクマいますぐ死ねっ!」
俊速の居合い斬りは、西威の背中から生えた半透明の蛇一匹に受け止められてしまう。
急襲した覇南彩音に西威は驚きもしない。
「ずいぶんかわいい後輩をお連れだ」
「ただのじゃじゃ馬だわ」
彩音はうしろを向いた。
後方から六匹の悪魔が飛んでくる。
西威の増援と言ったところ。
「せんぱい! 来てる! アクマ!」
仁は刀を弾いて、鍔迫り合いを終わらせた。
蛇たちもシュルシュルと主の躰にもどっていく。
西威は屋上の手摺りにスッと飛び乗る。刀を納め、両手を広げ——
「ここに雨が降るよ! 龍の子は産まれた!」
ビルの屋上から飛び降りる。
「待て! どうゆうことだ! 説明しやがれ! 西威!」
仁は慌てて手摺りまで走り、身を乗りだし、血眼でビル下を見渡すも、西威はいない。
「くそだわっ!」
仁はグーで金属の手摺りを叩いた。
「せんぱいっ!!」
彩音が空を見ながら叫んだ。悪魔たちが波状攻撃で迫る。しかし、相手はプロ中のプロ。まるでテニスプレイヤーが球を返すように、悪魔たちは軽々《かるがる》と斬り伏せられてゆく。時間にして一分とかからなかった。いったん、静まるビルの屋上。
なにも知らない警察官達がドタドタと賑やかに足音を鳴らし、階段を駆け上がってくる。屋上にいるふたりを見つけると、銃口を向けて叫んだ。
「武器を置いて手をあげろ!」
彩音はため息をつきながら納刀。
仁も武器を納め、ポケットからタバコを取り出し、火をつけた。
「お、おい! ふざけてるのか! て、手をあげろ!」
仁は口では応えず、ふー……、と煙を空に吹く。左手で胸ポケットから警察手帳を取りだして警官に見せた。
「これ見てもわかんねぇか?」
目を凝らす、警官。
「そ、そんなのおもちゃの手帳に決まってる! コスプレかなんかだろ!」
「こりゃダメだわ」手帳が引っこんだ。
すると銃を向ける警官たちのあいだから、水色のラフなワイシャツを着た刑事らしい人物が前に出てきた。
仁の制服、刀、床に散らばる塵、それらを一望すると、すぐに頭を下げた。
「か、介入! 申し訳ありません!」
急に頭を下げる上司にポカンとする警官たちは「撤収だ!バカ!」と刑事に怒鳴られた。
嵐が去って、ふたたびしずまる屋上。
遠くの夜空から、ヘリの羽音が近づく。討魔分隊のヘリだ。彩音は淡いピンク色のツインテールの髪を揺らしながら、ピョンピョンと嬉しそうに跳ねて仁に近づいた。束の間でもふたりきりになれたのが嬉しいらしい。
「せんぱーい♡ けが、ないですか? なんなら、わたしが、一晩じゅー、かんびょーしてあげますよ?♡」
「おい、雨具、持ってるか?」
「えー? 確か天気予報だとぉ、こんしゅーは雨、降りませんよ? あ、せんぱい、もしかして雨男さん? かわいいぃ♡」
キャピキャピする彩音を無視して、仁は夜空を見つめる。さきほどまで黄金色に光っていた満月に黒い薄雲が被さり、月は輝きを失った。その光景をわざと隠すように視界をたばこの煙で満たした。
「せんぱーい、あまやどりならぁ、わたしの家が空いてますよー?♡」
ふと——月に被っていた黒い薄雲にすこしだけ穴が空き、そこから一筋の月明かりが射した。
(救世主でも来るってか? なら、心配ねぇか……)
タバコを携帯灰皿に突っこむ。横で「せんぱーい、聞いてますー?」と言いながら頬を膨らませる彩音に、仁はやっと口を開く。
「動きやすいカッパ。買っとけ」




