ー捌ー
「おっさん、澪の家に行ってくれ」
車に乗るやいなや、秋はすぐに言った。
「お? おれぁ、てっきり賢二さんの寺に行くもんだと思ってたんだが」
「ごめん、状況が変わった。頼める?」
「あぁ、やすいごようだ」
須賀は車を走らせる。ふと、秋が予定より一時間も遅れて東子の家から出てきた理由を考えてみた。状況が変わったというくらいだし、いろいろな話をしたんだろう、そう思いながらバックミラーに目をやった。
後部座席に座る秋のオレンジのパーカーの左胸のあたりが、明らかに濡れて、変色している事に気づく。
(すぐ勘ぐっちまう……。刑事のわるい癖だな)
さらに秋は、どこかスッキリした顔をして車窓を眺めている。まさか、いや、ない。ありえない。秋がそんな、ないに決まってらぁ。
「東子さんの家、どうだった?」
「きれいだったよ」
「そ、そうか」
「西威が買ったんだって」
「そうなんだな」
「白魔化した人間て、戸籍上はどうなるの?」
「すくなくとも、死んだことにはなってるんじゃねぇか? まぁ、前例がねぇからお上がどうあつかうかは、わからねぇ」
悪魔になった人間は、それがどんなすがたであっても死んだものとする——。それがいまの法律だ。
「どうした、それについて、話してきたのか?」須賀が言う。
「いや——」秋は窓に向かって、「あいつが、兄貴にまた会えたらいいなって。思っただけだよ」
*
数分後。
車は澪の家についた。
「いらっしゃー、秋!?」
澪は頬杖をぶっ飛ばして背筋を伸ばした。
「要さん、いる?」秋が刀の紐を肩から下ろしながら言った。
「お父さん、さっきまで庭の草取りしてたから、いまシャワー浴びてるよ?」
「急に押しかけて、申し訳ない」須賀が頭を下げる。
「あ、よかったら上がってください。お茶を出しますから」
秋は須賀の顔を見て、すこし気まずそうな顔をした。
「おっさんごめん。できれば要さんとふたりで話したい」
「お、わかった。それなら、澪さん」
「は、はい」
「秋だけ、中で要さんを待たせてやってもらえないか?」
「あ、え、はい、どうぞ」
「どうしたの急に。何かあったの?」 居間のちゃぶ台にお茶を置きながら、澪は、座布団に座る秋に言った。
「うん、まぁ」
「うん、まぁ——か」
「うん」
「そ」
このとき、澪はなぜか、秋に抱きつきたくなった。だれかに秋をとられる、そんな気がした。すごく、した。
お茶を運んだお盆。
それを胸にギュッと押し付ける。
口はへの字に。
目が熱くなる。
すこし涙ぐんだ目。
「どした?」
秋は自分の顔に何かついてるのかと思った。
「な、なんでもない…」
「お茶、ありがと」
秋はそう言って、やたら綺麗な笑顔をした。
(なに!? いまの笑顔!? こんな顔、見たことない! 私の知らないところで何かあった、そう、絶対そう!)
女の勘が研ぎたての刀みたいに冴え渡る。ふと秋の服、パーカーの左胸の変色にも気付く。
「服、どうしたの?」
「え?」
「え? じゃないよ。なんで汚れてるの?」
「えと、道で転んだ」
(わかりやすっ! なんだこの男! 隠すの下手すぎる! 道で転んだら土とかつくでしょ! 土! でもなにがあったのか《《何故か》》すごく知りたくない……! なんなの、この気持ち)
「そ、そーなんだーへー、それは大変だったねー」
澪はさっさと居間から出て行った。
秋は、お茶をすする。
どこからか洗濯物をカゴに入れる音がしたと思ったら、つづいて洗濯機が起動する音が聞こえた。秋は要が来るのを悟って、んんっ! とのどを整える。姿勢も正した。
「おや、秋くん! どうしたんだ?」
頭をバスタオルで拭きながら、要が居間に来た。白いタンクトップからの色黒の腕には火傷の痕が多い。
「あ、すいません、突然」秋が正座で頭を下げる。
「そんな、かしこまらないでよ。足、崩していいから」要は、ちゃぶ台を挟んで座った。
「は、はい、すいません」
「どうしたんだい? 刀のこと?」
「あ、いや、その」
「ん? なんでも言ってごらん?」
「えと…い、いいですか?」
「うん、構わないよ?」
「E•A•E•C、知ってますか?」
要の頭を拭く手がピタリと止まった。そのまま数秒の沈黙。やばいこと訊いたんじゃないか? と、秋が心配をする。
「つまり、こうゆうことでいいのかな? 三代賢二さんから、ぼくにそう言えと言われた。秋くんはいま、霊剥ぎのために、動こうとしている」
「はい……」
「うん。わかった。いよいよだね」
不安そうだが、嬉しそうな、複雑な顔。
「実はぼくの別れた妻が黄泉巫女なんだ」
「……よもつ?」
「かすみさんが火守りだろう? その前身が黄泉巫女だ。黄泉巫女は緑の火、そのものと思ってもらっていい。だから、多くの祭壇に灯っている炎は、巫女の力を《《分けて与えられた》》もの。刀使いとおなじ数の巫女を用意するのは——現実的じゃなかったからね……」
すこしむずかしい話だが、秋の頭にある光景が浮かんだ。
「アンパンマン、みたいなものですか?」
「あ——」要は眉をかたむけて、「そうだね、黄泉巫女がアンパンマンで、お寺に灯っている火は、ちぎって分けられたパンかも」
はっはは、と要は笑う。
「黄泉巫女と聞いたら、祭壇の火が歩いてしゃべっている、と思えばいいよ。——そして澪はまぎれもなく、黄泉巫女の血を引いている」
それは自然とそうなる。
不思議な話ではない。
「——優香は東京の新宿のどこかの教会にいるかもしれない、ということまでしか知らないんだ。すまない」
「新宿の教会……」
自分の東京行きが具体化してきた。得体のしれない緊張感におそわれる。
「ある日の夜、このちゃぶ台に置き手紙が置いてあった。あっさりしたものだった。形だけの夫婦だったから。ちいさな澪を育てる為だけの関係だったから……」
「手紙には、なんて?」
要はしばらく黙った。その脳裏には、「かーさんのおてがみ! みおもかく! てがみ! かく! おとーさんも、おへんじかいて!」と、なにもわからずに、はしゃいでいたおさない澪の顔が浮かんだ。
要は一度、居間から出て、どこからか手紙らしきものを持ってきて、秋に渡した。
教会に入ります。
東亜エクソシスト教会に、
わたしの居場所があると確信しました。
もし、その刻がきたら。
澪が巫女の力に目覚めたら。
彼女に伝えてください。
鋼と炎よりも大切なものがある、と。
いままで、お世話になりました。
練沐馬 優香
言いたいことは一度読めばわかる。しかし秋はこの短い文章を何度も何度も、読み返した。
「この鍛冶屋にも、地方から足を運んでくれる人達がいた。いろんな話を、悪魔祓いの皆から聞けた。そのなかには、『東京の新宿にキリストの流れを汲む、悪魔祓いの集団がいるらしい』って、うわさもあった。もしかしたら、妻となにか関係があるんじゃないか、直感でそう思った。でもぼくは彼女に会う資格がない。会えるのは、澪だけだ」
秋は未だに手紙から目が離せない。女性らしい文字はどこか、澪がよく書く丸文字に似ている気がする。
「秋くん。お願いします」急にかしこまる、要。秋は手紙から顔を離す。「は、はい?」
一歩うしろに下がり、要は土下座をした。
「な! や、やめてください、どうしたんですか!?」秋はあわてる。
要は、畳に頭をこすりながら、
「澪を、東京に連れて行ってやってほしい。優香に会わせてやってほしい。きみになら安心して任せられる。頼まれてくれないか——」




