ー漆ー
「なにやってんだろ、わたし」
壁を背に、並んで座るふたりの躰はいま、拳ふたつ分ほど離れている。オレンジ色のパーカーは、胸のあたりが東子の涙や鼻水で変色し、背中はシワだらけ。
「ごめん、服。弁償する」
「え? そこまで汚れてない」
「あなた、いつもそうゆうの、着てるの?」
「そうゆうの?」
「無地のパーカー」
「あぁ」
「ねぇ、誕生日《たんじょうび、いつ?」
「知ってどうする」
「友達の誕生日くらい、知りたいでしょ、普通」
(友達……)
秋は、友達と呼べる人がいままで居たのかと考えた。すくなくとも、同年代の男友達はいない。家族以外で付き合いがあると言えば、澪と要、おっさんのみ。
「ねぇ、聞いてるの?」
うつろな秋に、東子が横から話しかける。
「あ、あぁ、ごめん」
「ちょっとくらい、わたしを視界に入れなさいよ」
「ごめん」
「あなた相当、罪深いわよ」
「罪? おれ犯罪者なのか?」
「女心を無意識に振りまわすっていう、大罪」
「なんだそれ」
「その気にさせる魅力があるのに、まったく自覚無し」
「魅力ないだろ。おまえおかしいぞ」
「その無自覚さ故か、ありえないくらい鈍感。苦労するわね、あの娘もこのさき」
東子はテーブルに手を伸ばし、スマホを手にとった。
「いまお父さんに電話、するから」
「あ——」
秋の返事を聞く間もなしに、スマホはすでに東子の耳だ。
「もしもし、お父さん——」
しばらく会話して、東子はすぐに電話を切った。
すこし困った顔をしている。
「だめなのか?」
「結論から言うと、会わないって」
「そう……、か」
「でも会いたくないって感じじゃ、ない」
「ん?」
「いまは会う必要がない、そんなニュアンスだった。それで、代わりにこう言ってた」
——霊剥ぎを追うなら、柊木要に、E•A•E•Cと言え——
空気が止まった。
お互いに、その言葉の意味がわからない。
「イーエーイーシー…? 英会話教室?」
秋は難しい顔をした。
「Eはイースト? Aはアメリカ?」
東子は持ち前の頭脳をフル回転させている。こうゆう謎解きは得意だ。
「ちょっと、調べてみる」東子はスマホでE•A•E•Cを検索した。「出てこない」
それならと、まずE•Aを検索。
「アメリカの、ゲーム会社? ぜったいちがう」つづいて、E•Cを検索。「通販ビジネスと、IT——これもちがうわね」
スマホを操作する指が止まった。もっと、別の角度から検索をする必要がありそうだ。
「おまえでも、わからない…?」
「多分、組織の名前だとは思う。イーストアメリカ、もしくは、イーストアジアから始まるのが妥当」
「ちょっと待ってて、時間、あるわよね?」
東子は勉強机に足早で向かった。水色のノートパソコンを開き、ガチ検索を始めた。やたらと姿勢良く椅子に座る後ろ姿を、秋は、呆然と眺めるしかない。ふと、壁の時計に目をやると、東子の家に入ってから、1時間半が経っていた。
(やべ、おっさん、大丈夫かな)
須賀の心配をする秋を尻目に、東子はカタカタとハッカーみたく指を忙しなくキーボードに叩きつけ、画面に食らいついている。メガネに四角い光が反射している。
「あ、これかも。情報としては、ちょっと古いけど——」画面を見ながら、後うしにいる秋に手招きをして見せる。「掲示板の情報だから公式ではないし、定かではないけど、現時点ではこれが一番有力かも」
秋が覗いた画面には、こう書かれていた。
@raiken.kaminari-love
東京に来てよかった。
地方の悪魔祓いはダセェ。
悪魔祓いって言葉が、そもそも、ダセェ。
東京の悪魔ほど、狩り甲斐のある悪魔はいねぇ。
どいつもこいつも欲にまみれて腐ってやがる。
雷切を振る価値がある。
おれは今日から、ちがうおれになる。
E•A•E•Cで、エクソシスト教会で。
あんな田舎とはおさらばだ。
「なんかこいつ、なんか腹立つな」
秋は画面に向かって、いつもの怪訝な顔をした。
「田舎から、東京に行って、なにかしらの悪魔祓いの組織に入った。で、それがエクソシスト教会と呼ばれている。教会って言うくらいだから、きっとキリストの流れを汲んでいるんでしょうね」
「あぁ、なるほど」
「E•CがExorcist Church。これは、ほぼ決定ね」
「E•Aは?」
「東京だから、東アメリカはおかしい。しっくりくるのは」
『東亜エクソシスト教会…』
ふたりの声がそろった。謎の気まずさ。
「……」秋は顔を逸らす。
「んんっ」喉を鳴らす東子。
秋は、部屋の窓から外の道路を見た。
須賀の車が路肩に止まっている。
(やっぱ来てるよなっ! おっさんごめん!)
「もう、帰る?」
東子がパソコンの画面を見たまま言った。
「あぁ。色々、ありがとな」秋はテーブルの麦茶を飲み干した。「ごちそうさま」
東子は椅子をまわして振り向いた。メガネが太陽光に反射していて表情のすべては読めないが、口元だけでも寂しそうな顔だとわかる。
「また、来て……」
「ああ。いまは、討魔分隊が町にいるから大丈夫だけど。また、一緒に闘おう」
ぐぅ……、と東子のお腹が鳴った。
メガネの下の頬が赤くなる。
「おまえ、ちゃんと食ってるのか?」
「料理も人並み以上よ」
「そっか。安心した」
秋が笑った。
すごく良い笑顔。
こんな顔するんだ。
東子はそう思った。
「玄関まで送る」
「ありがと」
靴を履く秋の背中に、東子が話しかけた。
「あ、ねぇ。誕生日」
「え?」
「教えて、いつ?」
「4月3日」
「そっか、シミの日って覚えとく」
「おまえは?」
「え? 私?」
「誕生日、いつなんだ?」
「8月19日」
「なんだ、ついこの間だったのか…」
「今年はだれも祝ってくれなかったけどね」
「もし東京に行くことになったら、なにか買ってくる」
「そう、まかせる。ありがと」
「センス、ないかもだけど」
「ふふっ、そうかもね」
秋は返事代わりにすこし微笑んでから、ドアに手をかけた。開いた玄関のドアからもわっ、とした熱風が吹きこむ。
「こんなに暑かったのか、外」
「気をつけてね」
「あぁ、またな」
「うん」
秋は右手を上げて玄関から消えた。
ドアが閉まる。
しずまりかえった、家のなか。
またひとり。いつものひとり。
「プレゼントか」
玄関の鍵を閉めてドアに背中を預けた。おもむろに天井を見上げて、大きく息を吸う。
「プレゼントなら、さっき、もらった。あれで、十分よ」
彼の残り香は——爽やかな森林のそよ風みたいな、優しい香りだった。




