ー陸ー
東子の長い髪、その毛先がの左腕に触れる。優しく、絡みつくように。呼吸の音が聞こえる。左耳。くすぐったさは、とっくに超えてる。
「——どうなの」
まただ。
また訊いてきた。
なにを言えばいい。
突き飛ばして逃げる?
部屋から飛び出す?
心臓がどうかなりそう。
この状況がこわいから?
どうしてこわい?
(どうしたらいいか、わからないから)
普通は嬉しい。こんな美人に迫られたら。普通は嬉しいと思うだろう。
でも、ちがう。
本心は?
(逃げたい)
なら、好きじゃない?
(すくなくとも、恋はしていない)
それなら言わないと。
(なにを?)
気持ちを。
(あぁ——そうか)
言葉を選べ。
「あの」
秋の頬に、ヒヤッとしたものが当たった。
東子のメガネが当たっている。
「きらいじゃ、ない」
「好きなの?」
「そうじゃない」
「なら、きらい?」
「ちがう」
「どっち」
「なんて言えばいい」
「思ったまま」
「——逃げたい」
東子は顔を離した。真正面——三〇センチの距離で見つめ合う。
「……ぷっ、はははっ」
うつむいて笑いだした。
「なんだよ」
「逃げたい、だって」
「思ったまま言っただけだ」
「わたし、これでもモテるんだよ」
「——そうなのか?」
「……おっかしい」
「なにがだよ」
「あなた」
「普通じゃないことくらい知ってる」
「刀のこと以外はダメなのね」
「おれはそれでいい」
東子は、ふたたびうつむいた。なにも、言わなくなった。流れるような髪の生え際、綺麗な頭頂部ばかりが見える。ふと水滴が布に落ちる音がした。涙が秋のズボンを湿らせる。
「おい」
東子は応えない。
いや、応えられないのか。
ぐず、と鼻を鳴らしながら泣いている。
「大丈夫か?」
「わたしもういやだ」
「なに、が?」
「独りが、こわい。みんな、いなくなった。お母さんは死んだ。お兄ちゃんも、死んだようなもの」
「きっと、あなただって。あなたじゃなくたって。信頼できる人なんて、つくってはいけない」
「おれなんか、がいなくたって……。おまえには関係ないだろ? だって、そんなに強いのに——」
言葉を遮るように、東子はその顔を、秋の胸に押し当てた。そのまま背中に両腕をまわした。
「うそでいい。気持ちなんてなくていい。好きじゃなくていい。一度だけ抱きしめて……。おねがい……」
秋は、独りでいることを、自ら望んだ人間。それとは、対照的に、彼女は独りでいることを強いられた人間。
「おねがい……」
秋のパーカーが涙で濡れ、
その熱が肌にまで伝わってきた。
なにもできない。両手のひらはカーペットを触っている。
躰が石化したみたいに動かない。
なぜ、動かない?
(緊張しているから)
どうして?
(こんな経験、ない)
目の前で泣いてる東子なんてどうでもいい?
(そんなことない)
それは、どうして?
(仲間だから)
自分の気持ちなんて、いまは関係ない。そうだろ。彼女の心が悲鳴をあげている。どれだけ役にたつのかわからないけれど、なにもできないわけじゃない。
秋は、東子の背中に両腕をまわした。
そのまま力をこめた。
不器用だった。
手が震えた。
でもそんなこと、わからなくなるくらい東子は大声で泣いた。赤子みたいに。コーラの缶を何度も強く振ってから開けたみたいに。とめどなく流れる涙と、とめどなくあふれる声が。
「泣いてもいいと思う。そうゆうときくらい、あったっていい」
「鈍感のくせに、そんなセリフ言わないで」
・…………………………・
自宅の駄菓子屋で店番をしていた澪は、落ち着かなかった。
「また胸さわぎ。変なの……」
独り言をこぼし、おもむろにポケットからのスマホを取り出すと、なんとなくネットニュースを観た。
《人気ユアチューバー、ココにゃす、悪魔化して死亡か。火ノ花町で、悪魔の目撃例が増加中》
「え、これ、闘ったの、たぶん秋だよね」
澪はニュースのコメント欄を見た。
《やっぱ、取り憑かれると思ったよ》
《実際、再生数稼ぎに取り憑かれてた件》
《ゲーム実況、配信してるだけでもよかったのにな》
《親が既にある意味、悪魔だった説》
《悪魔化ココにゃすの戦闘シーン、はよ》
などと野次馬的なコメントが並んでいる。所詮、他人事なんだな、と思いながらスマホの画面をオフにする。
「こんちわあぁ!」
突然、近所の子供が、駄菓子を買いにきた。丸坊主の、青い頭をしている小学生。見た目も雰囲気もクソガキという言葉がぴったり当てはまる。
「あ、いらっしゃい」
「うめぇ棒、買いにきた!」
「どうぞぉー」
「あ、澪ねえちゃん、ふられたんだ!」
「はっ!? なんでそうなる」
「クラスの女子がふられたときとおなじ顔してた」
「変な勘を働かせるなよ、ちびのくせに」
「ずぼし! ず、ぼ、し!」
「うぜぇ。きょうはうめぇ棒一本100円ね」
「えぇ! なんんでえぇ!!」
——秋を好きになるんじゃなかった。
鈍感で。
なにも察しない。
(まさか東子さんの家に……? ちがうよね。きっと、ちがうはず)
ふたたび、大きなため息を澪はついた。すると、嬉しそうな顔でクソガキがレジに駆け寄ってきたと思ったら目の前に10本のうめぇ棒が雑に置かれた。クソガキがにっこり笑って、カエルの形をした財布から100円を取り出し、レジのキャッシュトレイに置いた。
「10円、足りないよ」
「なんで! それじゃ一個11円じゃん!」
「しょーひぜい」
「あ」
クソガキは財布の中を覗き込むと、顔が曇った。
100円玉しか持ってきていないらしい。
「いっこもどしてくる」
悲しそうに言って、うめぇ棒を一本、手にとったクソガキ。その背中は哀愁でいっぱいだ。
「いいよ」
「え?」クソガキは振り返る。
「10円、おまけ」
「ホントに! やったー! おれ、結婚するなら澪ねえがいい! デカくなったら結婚して!」
「ばーか。先約があるんだよーだ」
「えー! だれぇー! だれぇー!」
「ひ、み、つー。はやく帰ってボケモンでもやりなー」
「ちぇーっ! じゃあねー澪ねえ!」
「気をつけてねー。蚊に刺されんなよー」
「うん!」
クソガキは、子供用のマウンテンバイクに乗って帰った。
しずまりかえった店内。きょうは要も金槌を置いている。
澪は、頬杖をついて、ぼそっと独り言をこぼした。
「あの鈍感爆弾男に先約なんか、いたりしないよね……」




