ー伍ー
刀闘記を読んだ日から、一週間が過ぎた。秋はこれまで削っていた睡眠時間を取りもどすように毎日二〇時間は寝た。
布団で死んだように熟睡し、そのうちにかすみに起こされて一日一食を食べ、シャワーを浴びるためだけに起き、それらを済ましたらまた寝る。げっそりと痩せた頬も、目のクマも、血色を取りもどしてきた。
須賀は、秋の自宅をたずねた。セダンのフロントガラスは新しくなっている。
「秋がいつも、お世話になってます」
茶色の作務衣に身を包んだかすみが、頭を深々《ふかぶか》と下げながら出迎えた。
「あぁ、いえ、とんでもない、世話になってるのはこちらのほうです」
須賀はペコペコし、右手で頭を搔いた。服装はストライプが入った水色の半袖ワイシャツ。足元は黒色のジーンズに、ちょっとお洒落な茶色の革靴。ラフな格好からしてきょうは非番のようだ。
「秋は?」
「例によって、寝ているの。起きるかしら」
「あ、いえ、無理に起こさなくても、また出直します」
「そんな、せめて、上がっていってください。お茶を飲んでいる間に、起きると思いますから、いや《《起こしますから》》」
かすみはそう言ってニッコリと微笑む。須賀はその満面の笑みから謎の殺気を感じつつ、お茶をいただくことにした。ふかふかの座布団に正座をすると、目の前に羊羹と緑茶が並べられた。
「ちょっと待っててくださいね、いま、秋を見てきますから」
そう言ってかすみはふたたび微笑む。
どうも、ふてきな笑みだ
「お手柔らかに……」須賀は苦笑いを見せる。
ふふっ……と、軽く会釈をしてから、かすみは秋の部屋に向かった。ふすまを開け部屋に入った。
八畳の部屋の真ん中に、布団にくるまった秋がいる。布団のすぐそばに刀が寝ている。その他には、勉強用の机と本棚があるだけでテレビなどの娯楽はいっさいない。
和風の拘置所と言われても違和感がないくらいに閑散とした一室。
「須賀さんが来たわよ、秋」
秋の頭の横に正座をし、声をかける。
「ずっと寝るのもいいけど、それはそれで毒よ。すこしは体を動かさないと」
しかしピクリとも動かない。
かすみは、秋の耳元に顔を近づけた。
蚊の羽音を真似た音を、喉で鳴らす。
耳障りな音に、秋は、自分の頬を無意識に叩く。ペチ、と軽い打音が鳴った。
「……ん」
「おはよう」
「母さん?」
「須賀さんがおみえよ」
「え……?」
「ほら起きて、ご挨拶しなさい」
「……わかった」
ふたたび秋は寝た。
かすみは一度、部屋から出た。
どこからか銀次を捕まえてもどってきた。
「おぉ、なんじゃ、かすみ、わ、わしを捕獲するでない!」
かすみは、横向きで寝る秋の頬に銀次を置いた。懐からひまわりの種を取りだして与えた。
「おぉぉ! 種じゃ! 種!」
悲しいかな、ハムスターとは好物があるとその場でそれを貪ることがある。頬にチクチクと爪や種の殻が地味に刺さる。
「……っ! 虫!!」
秋は布団を翻して飛び起きた。
「なんじゃぁ!」
宙を舞う銀次。
おなじく宙を舞う掛け布団。
すべてがスローモーション。
正座のかすみは両手で掬うように銀次をキャッチする——
忍者のように姿勢を低く、戦闘体勢をとる秋——の頭に掛け布団が被さる。
「おはようございます」
秋は呆気にとられながら、
「お、おはようございます」
*
紫のタンクトップに黒い短パンの寝巻き姿のまま——ボサボサの頭を掻きながら、秋は須賀のいる居間に来た。悪魔と闘っているときとは、まるで別人のような秋を見て、思わず笑ってしまう。
「いつからアフロになったんだよ」
「え?」
「よく休めたか?」
「あう?」
「まだ、寝起きで頭が回らないか…?」
「え?」
起きたのは身体だけだな、と須賀は思った。
「東子に電話して、おっさん」と秋は言った。一秒もないうちに目が覚めたようだ。読めない男だ。「父さんについて、訊かなきゃならないことがある」
「東子さんというよりかは、賢二さんにか?」
「うん。とりあえずあいつの許可をもらわないと」
「行くとしたら、いつがいい?」
「むこうが大丈夫なら、きょう」
「きょう、か」
「おっさん、忙しい?」
「いや、きょうは非番だ。すこし待ってろ」
胸ポケットからスマホを取りだして、須賀は電話をかける。何回かのコールでつながった。
「もしもし、先達はどうも、須賀です」
「どうも」東子の声がする。
「その後——体調は変わりないですか?」
「えぇ。きょう、空いてますよ。彼、来る気あるんですか?」
すべてを察したように東子は話を進める。
須賀は横に目線をやった。
秋はうなずく。
「では、午後の1時に、秋を連れて行こうと思うんですが、よろしいですか?」
「はい、どうぞ」
「では、そのように」
「よろしくお願いします」
ブツッ、プー、プー、と通話が一方的に終了したことを知らせる無感情な音が須賀の耳の中を抜ける。
「行く意味、あるのかな」
秋が言った。迷いがあるようだ。
「直之さんのこと、訊くんだろ?」
「父さんの遺書を読んだ」
「そうなのか?」
「三代賢二と、父さん。そして、霊剥ぎが密接に関係している。父さんとはもう話せないから——」
「なるほどな……」須賀は茶をすすった。「東子さんとの話が終わって、こっちにもどる時に、ラーメンでも食いに行こう」
秋は突然のさそいにおどろいた。
「なんで、ラーメン?」
「たまにはガツンとしたもん、食ったほうがいいぞ? それに、面倒な用事には楽しみをくっつけたほうが動きやすいってもんよ」
「いいよ、うちで食べるから」
「いいから、いっぺん、行ってみようや。美味いとこ知ってるんだよ——しかし、まずそのアフロをなんとかしないと、出かけらんねぇぞ」
秋は、頭をワサワサと触った。
いつもより毛量が多い気がする。
「シャワー入ってくる」
*
住宅街のモデルハウスのような、至って普通の一軒家のそばに、須賀の車は止まった。
「普通の家だね」
「ここでまちがいないな」
「おっさん、ついて来れないの?」
「ダメだろ。あなたがいるなら話しませんとか、冷たーく言われそうだ」
「……行ってくる」
「1時間くらいしたら、もどればいいか?」
「1時間!?」秋は声を張った。「30分でいい。30分でカタをつける…」
「悪魔と闘うってんじゃないんだから、そうかまえるなよ…」
「おれにとってはある意味、悪魔だよ」
そう言って秋は車から降りた。車がゆっくり離れていく。オレンジ色の半袖パーカーと、黒のカーゴパンツ。白を基調にしたハイカットスニーカーを履き、刀が入った長細い布袋を背負ったひとりの男子高生は、自他共に認める優等生の女子高生——その自宅の前に、ポツンと置き去りにされた。
「………よし…」
360度、どこから見ても緊張していると分かるほどガチガチな面持ちで、秋はチャイムを鳴らす。いますぐ逃げだしたいと思うほど、血がサーッと引く感覚がする。
ドアが開いた。
「どうぞ」
東子がドアから半身を出して迎えた。首元が広めで、肩も見えそうな白いTシャツに、太ももがほとんど露わになるほど丈の短いルーム用のショートパンツ。いつもはストレートで下ろしている黒髪の長髪は、左右にツインテールで結ばれている。
「おじゃま、します」
b爽やかで甘い、女性用の香水のような香りが漂う。
「これ、履いて」秋の足元に来客用のスリッパが置かれる。
「ありがとう、ございます」
ガチガチに応え、靴を脱ぎ、ふるえる手で揃える秋を見て、東子はクスッと笑った。
「なに、そんなに緊張してるの?」
「他人の家に来たこと、ない」
「そ——。ま、なんでもいいけど。こっち、来て」
玄関からすぐの階段を上がった。三つほどある部屋のうち、一番奥の部屋のドアを東子は開けた。
「入って」
青を中心に彩られたインテリア。
ベッドカバー、カーペット、カーテン——。
全てが海の色のような、濃い青空のような。
綺麗な蒼色で統一されている。
「ここ、座って」
東子は座り心地が良さそうな、紫の肉厚な座布団を指差す。
秋は緊張した面持ちでそこに正座をする。刀を背中から下ろして右側に置いた。
「お茶を持ってくるから。足、崩して」
そう言って一度、東子は部屋を出た。
壁がけ時計の音が秋の耳にやけに響く。
「お待たせ」
麦茶のポットとグラスが白いテーブルに並ぶ。
「あり……、がとう」もじゃもじゃ頭がぺこり。
東子はテーブルを挟んで反対側の座布団に座った。座布団カバーには、氷の力を使うアニメのヒロインが描かれている。
「新しい家なんだな」
「お兄ちゃんが、警察に入ってすぐに買ったの。ローンで」
「西威が?」
「そう。東子に惨めな思いはさせないよって、言って、ね。まぁ、もう人間ではないけれど」
窓の外を見て、遠い目をする東子。
メガネに、太陽光が軽く反射した。
「あのさ。読んだんだ。遺書、父さんの」
「あら、そうなの?」
「そこに書いてあった」
「わたしの父が、左腕を亡くしたこと?」
「……おれは、霊剥ぎを成功させたい。そのために、賢二さんと会わなきゃいけない」
東子はすこし間を置いた。それは次第に深く、長い、海の底に沈むような沈黙へと変わっていく。壁掛け時計の音が増して耳に響く。
自分の心臓の音すらもよく聴こえる。
東子は、体育座りで膝を抱えて、
自分の足の爪を触っている。
「あの……」秋がしびれを切らした。「賢二さんに、会ってみたいんだけど……」
「いいわよ。連絡、とってあげる」
あっさり、OKがもらえた。
さっきの沈黙はなんだったのか、というくらい。
「いいのか? 早ければきょうにも、おっさんに連れて行ってもらえるけど——」
しかし東子は突然、四つん這いで近づいてきた。
「——っ! なんっ! なにして——!」
座ったまま後ろに逃げる。
すぐに、壁に背中が当たった。
東子は女豹のように近づいてくる。
Tシャツの肩がはだけて、下着の紐が覗く。
行き場を失った秋の、顔の真横に自分の顔を寄せた。
黒く乱れのない髪から、椿の香りがする。
口元を左耳に近づける。
囁くようにそっと——女らしい声。
「わたしのこと、どう? ——おもう?」




