ー参ー
銀次はヒョイッと小さな躰を起こし、両手でわしゃわしゃと毛繕いをした。
「刀闘記を見るんじゃよ。立神秋」
あくまで自然の流れだった。急にフルネームを言われると思わなかったが、ここは茶化すところではない。自然体ながらも鋭い気迫が銀次から伝わる。
「とーとーき?」
「かすみ、蔵の鍵を——」
「はい……。秋、蔵の場所はわかる?」
「本堂の裏にある小屋みたいなとこでしょ?」
「本堂で待ってて。鍵、持っていくから」
「わかった……」
「蔵に行けば躰がほこりっぽくなるからシャワーは後じゃの。まずは、本堂の火に帰還報告をせい」
銀次に言われながら、秋は本堂に行く。かすみが一晩中、座っていた座布団に正座をし両手を合わせた。
「昨晩は、熱かったのぉ」右肩の銀次がこぼす。
秋は、合掌を解いた。
「火、揺れた?」
「あーそりゃーもうユラユラとな」
「母さん、熱くて大変だったよね」
「なぁに。お前のことを想えば、なんてことない」
ふたりが話していると、間もなくかすみが本堂にきた。
「秋、鍵もってきたよ」
秋は正座から立ち上がった。
かすみの方へ歩いて、鍵を受け取る。
「ありがと」
「蔵、汚いと思うから。足元気をつけてね」
「うん」
本堂の裏口を出る。雑草や、無造作に伸びきった松の木の枝がうっとおしい。
「さすがに手入れせんとならんな」銀次が言った。「ぼーぼーじゃて」
地面に多い茂る雑草から、わずかに見える飛び石を頼りに蔵に向かう。
「ここ……、か」
蔵は2メートルほどの高さで、幅は約10畳の一部屋ほど。漆黒の瓦屋根が黒光りし、白塗りの外壁には、びっしりと生えた濃緑の苔が古びた風情を演出している。木製の扉の入り口は1メートルほどの高さしか無く、小柄な秋でも屈まないと中には入れない。
「何年、だれも来てないんだ、ここ…」
入り口の南京錠をガチャガチャと構いながら秋が言った。南京錠は錆びていて、鍵がうまく回らない。
「わしがこの躰になった時、以来じゃて。九年か、そこらかの」
「九年……」
秋はおそるおそる木の扉を開いた。
扉はスライド式。
右側に扉をスライドさせる。
「意外とあっさり、戸、動いたね……」
「潤滑のロウが、まだ効いとるの」
「––––ん! えっほっ!」
蔵の中から舞って出てきたほこりに、秋がむせた。
「大丈夫か? さすがに、ほこりっぽいのぉ、えーきしっ!!」
ハムスターもくしゃみした。
「うわ、想像以上……」
扉から差し込んだ光は、蔵の中を照らした。木製の棚が所狭しと置かれ、その至る所に、木刀や竹刀、古い書物らが整頓されて置いてある。
薄暗く、ジメジメとしてカビ臭い。加え、ひとたび躰を起こせば、すぐに頭をぶつけそうなほどに天井が低い。秋は中腰の姿勢で中に入った。
「この本は……、なに?」
秋は棚の本を一冊を手にとった。ペラペラとページをめくってみるが古い漢字が羅列し、意味は全くわからない。埃ばかりが舞う。
「なに書いてあるの? これ」
「そっちのは火守りの経本じゃよ」
「母さんもこれ読んだの?」
「いや、いまはもっと読みやすいのが寺院にあるから、これは読まんよ」
蔵の奥に目をやると、入り口からの光が、小さな木箱を半分だけ照らしている。
「おぉ、あれじゃ、あれ、あれを取れ」
銀次が言うと、秋は軽く息を止めながら、蔵の奥に進み、木箱を手にとった。
「おし、良いよ、さっさと出よう」
逃げるようにして蔵から出て、新鮮な空気を味わいながら木箱を地面に置く。
「これ……、開けられるの?」
桐で作られた白い木箱。フタミ式のかぶせ箱で、鍵や取手などの装飾は一切ない。さらに四つの角を釘で打ちつけられており、まるで封印でもされているかのよう。とても素手で開けるとは思えない。
「刀の柄で釘を叩いてみ?」
刀の紐を肩から下ろし、柄頭で釘をノックする。すると釘は、自らニョキッ、と木箱の角から抜けた。
「まじかよ……。手品みたい」
「まじじゃよ」
残る三つの釘も、おなじ所作であっさりと木箱から顔を出した。
「開けてみ?」
「うん……」
おそるおそる蓋を持ち上げる。木箱の中には短刀が一本。その下に古い本が一冊。さらに本の上には片眼鏡が一個ある。
「なに、これ?」
箱の中身が理解できず、秋は難しい顔をした。銀次はひとつひとつ丁寧に説明をするつもりで、秋に優しく語りかける。
「まず、短刀を持つんじゃ」
言われるままに短刀を持ち上げる。
「軽い……」
「抜いてみ?」
「うん……」
秋は短刀を抜いた。
「刀身が、緑?」
短刀の刀身は、緑色の水晶のようなもので出来ていた。
「翡翠じゃよ。まったく濁りのない、純翡翠じゃ」
目を見開いて短刀を眺める。
その柄頭を見ておどろく。
「針?」
短刀の柄頭から、一〇《じっ》センチほどの細い針が伸びていた。これも、翡翠で出来ている。しかし、この針。箱に収まっていた時には見えなかったはず。
「どういうこと?」
「いま一度、鞘に収めてみ?」
「うん……」
短刀が鞘に収まると、針もシャキッ、と音を鳴らし、柄の中へ消えた。
何度も短刀を鞘から抜いたり収めたりしてみると、そのたびに針も顔を出したり、隠したり。
「なんなの……、これ」
「霊剥ぎの短刀。じゃよ」
透き通った濃い緑色の刀身は、景色を透かせて見せた。その綺麗な刀身をいくら眺めても、これがどうして霊剥ぎに繋がるのか、秋にはさっぱりわからない。
「ほれ、片眼鏡も、とってみ」
普通の丸メガネの右半分だけを切り落としたような見た目。左側にしかないテンプルから、細く長い、銀で出来たチェーンが垂れ下がっている。
「かけてみ?」
銀次に従い、片眼鏡を左目にかけた。度は入っておらず、目は痛くない。景色も、なにも変わらない。
「なにも変わんないよ?」
キョロキョロと景色を見回す。
「わしを見ろ」
秋は、銀次に視線を落とした。
「え……、えぇ!?」
片眼鏡を通してみた銀次は、レントゲン写真のそれだった。色味こそ違えど、骨が見え、心臓らしき影が脈打っている。
なにより目を引いたのが、銀次の心臓近くにある、米粒ほどの大きさの、赤く煌る塊だった。
「なに……、これ」
「霊魂視鏡。そう呼ばれとる」
「れいこん、しきょう?」
「それでもって、体内の魂の場所と、取り憑いた悪霊が躰のどこに巣食っとるか、わかる」
「これで霊の場所を探して、短刀の針で、突く?」
「察しが良いの」
「突いたら?」
「躰から霊が飛び出る。それを翡翠の刃で斬る」
「それなら簡単に人にもどせるじゃん……!」
銀次は、秋に背を向けた。二、三歩、二足歩行してから残念そうに口を開いた。
「パンじゃよ」
「パン?」
「人の魂を、パンだと思ってみ?」
「うん……?」
「悪霊が躰に入ると、魂をかじりにゆく。個人差は、あるが、その者の魂が強靭なら、硬いし、かじるのも時間がかかる。アンパンよりフランスパンの方が食いにくいのとおなじよ」
「魂が半分でも、それ以上でも……、食われた状態なら、人にもどったとしても」
「感情の一つや二つ、欠けたままになる」
「完全な状態で、人にもどすのは……」
取り憑いてすぐでもないと、無理な話だ。
「しかもじゃ、下手すると人の魂も丸ごと一緒に飛び出てしまう。悪霊が、その者の魂をかじって離さんかったら、まずそうなる」
銀次は、トコトコと可愛らしく歩き、桐の箱に近づいた。
「これを読んでみ。全部、書いてあるよ」
短刀と片眼鏡を木箱の蓋の上に置いて、桐の箱から本を手に取った。
情緒ある和綴じのノート。いままで本の表紙が箱の底に面していたらしい。深緑色の表紙、その左上に長方形の空白がある。
縦書きで、〈刀闘記〉と書かれていた。
ページをめくると。手触りの良い和紙の感触が、指に心地良い。和紙には真っ黒な墨で、綺麗に整列した、縦書きの文字が流れる。
——ここに記すのは、刀によって、悪魔と闘った記録——それというより、私自身が己が刀と闘った記録で或る——
「父さんの字だ」
ひさびさに父を直に感じた気がする。涙腺が熱くなった。本を濡らしてはならないと思い、涙を堪えた。すこし震える指で、ページをめくる。
《5月13日》
火ノ花の市街の外れで、悪魔を確認。金欲の、下位魔。カネだ、カネだと、うるさい。後日、須賀から、銀行強盗の計画をしていた者と伝えられる。
迷わず斬ったが、果たして死罪に値したのか。
《5月21日》
花山峠の麓。駐車場にて、複数の悪魔を確認。単身、乗り込もうとしたが、三代もいた。
共闘の末、悪魔は全滅。上位魔の存在は確認できない。派手なバイクが何台もあったので、おそらく、暴走族の類。三代の太刀筋は、冷徹無慈悲。しかし根は優しいと思う。
《6月2日》
悪魔を斬った。女の悪魔。病気の夫に先立たれたシングルマザー。須賀の話では、生活苦から、子供に虐待を繰り返していたらしい。悪霊のエサとなった欲は『幸せになりたい』その一心。
シアワセ……と、連呼していた。そんな欲も食らうのか。悪霊許すまじ。結果として、子供は救われた。しかし人として罪を償えば、まだ、更生の余地はあったはず。斬ることしか能が無い、己が刀が憎い。
《6月13日》
じじぃと喧嘩しながら、霊剥ぎの短刀と霊魂視鏡を、なんとか蔵から引っ張り出す。これで、悪魔を人にもどす。もどしてみせる。
《6月20日》
男の悪魔。須賀の調査だと、出世欲にかられ、同僚が仕事で大失敗をするように仕向けたとか。それが成功した日の夜。『これで出世だ、俺はやった』と浮かれる男に、悪霊が取り憑いたのだろう。三代とともに、その男を悪魔から人にもどそうと試みる。
しかし、最悪な結果に終わった。闘う場が、そいつの自宅付近だったのがいけなかった。悪魔化した主人の名を呼ぶ妻に、悪霊は乗り移りやがった。速かった。いや、おれが迷った。
霊魂視鏡で見た悪霊は、男の魂を丸ごと、躰からひっぱり出した。いま斬ったら男の魂まで斬ってしまう。そう思った矢先、妻の方が悪魔になった。
ここまでくると、優香の手を借りてでも成功させないといけない、という焦りさえ芽生える。
直之が、悪魔を人に戻すための失敗を繰り返し、イライラしている様が書き連ねられていた。ある程度ページを進めると、急に短い文章で、日記が途切れていた。
ページをめくる手も、文字を追う瞳も。
そのたった一文のために、ピタリと止まった。
《9月8日》
三代が、片腕を失った。おれのせいだ。霊剥ぎを封印する。




