ー拾玖ー
「上からなら、馬鹿力、でないこともない…」
「わかりました」
時を待たずに、大蛇は躰をぐらぐらを揺らしていく。例によって氷山の根本にヒビが入り、また折れしまえば、試合再開だ。
「ですが——」東子が言う。「あなただけでは斬れません」
「なら、どうする」
「低温脆性、ご存知ですか?」と言った。
「低温ぜいせい? ぜいせいって、どんな字だ?」
「ひくい、おんど、もろい、さが、です」
「あぁ……」
「わたしのやりたいこと、理解していただけますね?」
「理屈はわかる」
「鉄や鋼などの硬い金属が、ある一定の温度下まで凍ると、強い衝撃に弱くなる現象です」
「ご丁寧に解説、どうも……」
大蛇を突き刺す氷山の根本にヒビが入った。
もうあまり、話し合いの時間は無い。
「あいつが動き回ってても、氷で動き止められないか」
「どうでしょうね。善処しますけど。最低でも二箇所。首と尻尾付近を固めないといけません。ばかでかいホチキスでもあればいいですけどね」
「——笑うところ?」
「さぁ。ご自由に」
ふと——東子は頭痛を感じた。
こめかみに片手をやると、いま考えるべきではない光景がよぎる——
・…………………………・
三年前。とある病院の一室。
「東子、そんなに泣かないの」
「おかぁさん! 死んじゃいやだ! なんで治せないの! 病院を変えよう? 余命宣告なんて、もう一週間しかないってうそだよ! 絶対にちがう! そんなわけない!」
「東子、よく聞いて」
「なぁに?」涙にまみれた顔を、東子はセーターの袖で拭く。
「西威は優しい子。だからこそ、道を踏み外すかもしれない」
「お兄ちゃんは警察の悪魔祓いだよ。すごく立派になったよ」
「そうね。でもね東子。ひとつだけ約束してくれる?」
東子は涙目を、ベッド上の母に向ける。風に吹かれたレースのカーテンが、オレンジの夕陽をわずかにちらつかせる。
「もしも西威が、暗い闇に落ちてしまったら。あなたが照らしてあげて」
「照らす? どういうこと?」
「陽は——東から昇る。どんな雨雲にも暗闇にも、お兄ちゃんにも負けないくらい。強くなって。強くなるのよ。強く煌って。——そして信じてあげて。あなたが西の海に沈んでも、西威は月光のように優しくあなたを照らして、探して、かならず朝へとつないでくれる。だって、優しいお兄ちゃんだもの」
・…………………………・
「——い!」
だれかの声がする。
「——おい、雪女!」
となりに立っている秋が肩を揺らしているのに気づいて、東子は我を取りもどした。
「ごめん……、なさい」
「くるぞ!」
大蛇は四肢をベタりと地面に押しつけて、駆け出す寸前。
「動き、止められるか?」秋が言う。
「——ええ」
走りだす大蛇。
東子は高速で滑りだし、ロケットスタートの速度。
相手を釣るように動く。
秋は大蛇の動きから機を見て、グラウンドの中央に居座るコンテナに思いっきり飛び蹴りをした。空砲まじりの強力な蹴り。地面を滑走する4メートル四角形の鉄製コンテナは——大蛇の横っ腹に衝突。さすがに巨体はひるんだ。
「行けるか!」秋が叫ぶ。
「わたしまで潰す気!」
東子は怒号を漏らしながらも、すぐに蛇頭に飛び乗る。
「動かないで——よっ!」
大蛇の頭は地面ごとみるみる氷漬けにされてゆく。
しかし、尻尾が暴れる。
「うおああぁっ!」
どこで見ていたのか、須賀と警官たちが叫んだ。叫びながら彼らは大蛇の尻尾に飛びついた。大の男、数名が躰を重ね、大蛇の尻尾をなんとか拘束する。
「おっさん!?」
「おれたちだって、やるときゃやるんだよ!」
「う、うああああ!」暴れる尻尾から、警官のひとりが投げ飛ばされる。
東子は大蛇の頭を氷で拘束し終わった。
すぐに須賀たちが押さえる尻尾を拘束するために駆ける。
「離れて!」東子の声で、男たち大蛇の尻尾から離れる。すぐに尻尾を氷漬けにする。その間、秋は斬れる腕を斬れるだけ斬って、すこしでも四肢が機能しないようにかまいたちの様をまねていく。三本の腕は簡単に塵になるが、やはり弱点である一本の腕は傷を走らせるのがやっと。
「よし……」
尻尾が氷漬けになった。
東子は、最後の作業にかかる。
「頼んだぞ!」秋は、上に大きく跳んで、小学校の屋上に足を降ろした。柵の上に立って、眼下のグラウンドを狙う。
弱点の腕に添えた手、東子は全神経を集中させる。ここですべての体力が死んでもいい、そう思った。
大蛇の腕は、ぶるる、と寒さで痙攣してから、萎れた花みたいに弱々しくなった。
「いまっ!」東子が上を見て叫ぶ。
風に運ばれ、大蛇の真上。
見定めて、振りかぶる。
一直線に落下。
頬にあたる風圧。
それを見ていた須賀は、数年前を思い出した。
・…………………………・
三歳の秋に、寺院の庭で稽古をつける父、直之。そのふたりを縁側にいる須賀は茶を片手に見ていた。
「たかーく飛んでから、ビューン! と落ちて、ドーン! て、攻撃する技だぞぉわかるかぁ?」直之がしゃがんで言う。
「……わかんない」少年の秋は困ってしまう。
「お、そ、そうか、よし! じゃぁ見てろぉ」
木刀を手に、直之は寺院の屋根に飛び乗る。そこからさらに軽々と飛んでから、いきおいよく落下して木刀を庭の石に振り落とす——。庭の石は真っ二つに割れた。直之の足元もクレーターのように凹んでいる。
「しゅごい、しゅごーい! ぼくもやるー!」
幼い秋は父の技を見て喜んだ。木刀を手に持ち、近くにあった背の高い庭石に「よいしょっ」と可愛らしく登る。
「あ、だめだ秋! まだ受け身の風を教えてない!」
父の言葉は届かず、秋はすぐにぴょん——。
ボコッ——
まともに地面へと落ちてしまった。足を挫き、尻餅をついた。本来なら、急降下しても風の能力がクッションのように体を守るのだが、幼い秋はまだそこまでの技術を体得していない。
「いだぁぁぁい! うえええええん!」
「こらこら、ちゃんとお父さんとやらないから……」直之は介抱する。
「だ、大丈夫か!?」須賀は茶を吹き出した。シャツを濡らしながらも、むこうの心配をする。「えっほ、えっほ——きゅ、救急車呼ぶか!?」
「ごめん真也、くじいただけだよ、おれがついていながら、こんな光景を見せてしまった」
秋の泣き声を聞いたかすみが庭に駆けつける。
「なお! なにさせたの!」
「す、すまん……。見てはいたんだが」
「見てないからこうなったんでしょ! もう! 秋おいでー、よしよし」
裸足で庭に降りて、かすみはまっすぐ秋を抱き抱えた。そのまま屋内に連れて帰ろうとする。
「足、冷やさないとね」
「ごめん、頼むよ」直之は気まずい顔。
「もう、今度からわたしが監督します」
「そりゃ、とても安全で、いい稽古になりそうだ」
苦笑いの直之は、須賀と似たような表情を交換しあった。そこに——
「くおおおらっ! 直之! なにしとるか! 石!」
当時まだ人間だった銀次が駆けつけて怒鳴った。怒りの内訳は、庭の石を割ったことに対してだ。
「オヤジ、ごめん!」
直之は手を合掌して謝まった。ぷりぷりと怒りながらも、銀次は草履を履いて庭に降り、割れた石に近づく。——庭の砂利を凹ませるちいさな穴に気づいた。
「これは秋の仕業か?」
「そうだよ」
「三歳じゃのに、やりおるの……」
「まだ風と友達になるまで、いかないけどね」
「おまえが三つのとき、覚えとるか?」
「いや——」
「地面を凹ませることすら、できんかったよ」
「そうなの?」
「こいつぁ、化けるぞ」
「そうだと、嬉しいよ」
悪魔祓い一家ならではの光景に、須賀は微笑んだ。濡れたシャツなどどうでもいいとばかりに、居心地のよさを身に染みこませる。——湯呑みに半分ほど残っている茶を飲み干そうとすると、
「おっ」
須賀は手を止めて、湯呑みのなかをじっと見た。茶柱が立っていた。淹れたての茶なら立っているのもわかるが、すこし飲んで量が減っているのにめずらしいな、と思った。
「最後まで、あきらめんな——か」
なにかご利益がありそうなその茶を、須賀は一気に飲んだ。
・…………………………・
「みんな退がって!」
東子が叫び、大蛇の体から飛び退く。
須賀と警官たちも全員、大蛇から離れる。
最後の抵抗かのように、大蛇は強い邪気を真下から打ち放つ。息を吸うだけで胃がひっくり返りそうな、気味のわるい邪気。
ナニモカワラナイ
タダノイノチダ
イノチガヒトツ、オワルダケ
ライメイガトドロクトキ
イクツモノ
イクツモノ
イクツモノ
——死を斬って混沌に染まれ——
なんだ?
この声。
西威か?
いや、ちがう。
女の声のようで。
男の声のようで。
生き物の鳴き声みたいな。
「——秋! 刀を信じて!」
叫んだのは澪だ。この瀬戸際に駆けつけ、秋を見つけた。空中で振りかぶる彼の刀身が、視線が揺れていることを直感で悟り、反射的に声を投げた。
ものの数秒のようで、しかし何時間も経ったような感覚。
頬にあたる風に気を覚まして、
澪の声を両目の奥にまっすぐ置いて、
いま振るうべき一太刀を——
氷が砕ける音。
しずまる邪気。
肉体が悲鳴をあげて。
魂が断末魔を叫ぶ
夏に、雪が降ったんだよ。
朝陽は——
一片も残らず塵となった大蛇の全身を美しく、美しく、銀に染めた。




